絶世の美女と噂の弁内侍を救う2024/04/24 06:57

 楠木多聞丸正行が、なんと22歳の若さで死んだことを、今村翔吾さんはあまりにも可哀想だと思われたのだろう。 『人よ、花よ、』で、弁内侍(べんのないし)こと茅乃という女性を登場させた。

 1月の「等々力短信」第1175号「無性に知りたい芋づる式」に、「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった、と始めて、今村翔吾さんが高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことに関連して、時々、舞台回しとしての女を登場させるのだが、その一人が羽林家のとある公家の娘だった、と書いた。 弁内侍は、容姿端麗と評判の南朝の女官で、灰左がたまたまお顔を拝見して、その美貌は噂以上で、腰を抜かしそうになったと、多聞丸も聞いていた。

 北朝への帰順の道筋を探っている野田四郎正周が、その弁内侍に、高師直が酷く興味を持っているという情報をつかんで来た。 弁内侍といっても、『広辞苑』にもある女房三十六歌仙の鎌倉中期の歌人、藤原信実の娘で後深草天皇が東宮の頃から奉仕した『弁内侍日記』の著者ではない。 多聞丸の従兄弟、和田新兵衛行忠が、若い者の噂で弁内侍は日野俊基の子ではないかと。 弁内侍は嘉暦2年の生まれ、多聞丸より一つ年下になり、今は20歳、7年前の13歳の時、後醍醐帝が崩御する直前に朝廷に出仕することになった。 その時、内侍司に4人しかいない次官の典侍(ないしのすけ)に異例の若さで抜擢されたという。

 弁内侍が駕籠に乗り、三刻前に吉野を出立したという情報が入った。 行先はわからないが、大和、和泉、河内のいずれかだろう。 多聞丸は、大塚惟正の提案で、父の陣形の一つ波陣を使い、総勢157騎で弁内侍を見つけることにした。 波陣は、前後一里、左右二里、五人一組で索敵、伝令を繰り返す。 報せるべきことが出来(しゅったい)した場合、一人を切り離して本陣へと走らせる。 残り四人は索敵を続け、最後の一人になるまで四回は伝令を出せる。

 河内国高安郡方面の野田四郎から、行商が三十人ばかりの男の不穏な集団を見たという情報が伝わり、多聞丸と大塚惟正らの本陣も、弟の次郎正時たちを探す5騎を残して、17騎で野田ら二組に合流するために疾駆する。 野田からの伝令が、その集団が襲い掛かってきたので、戦っていると伝え、師直の手の者だという。 女官らしい着物も見える現場へ、楠木党16騎、気勢を上げて突貫した。 駕籠を守り、敵を押し捲っているところへ、次郎たち20騎も駆け付けて来た。 敵は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。 取り残された者のうち、まだ息のある者は、自ら命を絶った。 年嵩の女官が、恐る恐る尋ねるのに、「楠木です」と名乗ると、安堵の表情へと変わった。 女たちはみな無事だったが、護衛の青侍三人は悉く斬られた。

 駕籠から出た弁内侍、絶世の美女という噂に違うことはない。 二重瞼ではあるものの切れ長の涼し気な目、一切迷いなく通る高い鼻梁、やや口角の上がった口元、薄紅色の唇が白い肌に恐ろしいほど映える。 得も言われぬ上品さがあるのは間違いないが、何処か艶やかな色香も滲んでいる。 刺すほどの美しさであった。

湊川の戦いから、四条畷の戦いまで12年2024/04/23 06:57

「あらすじ」に、楠木党がついに決起する「正平2年8月10日」が出てきたので、実際の歴史を少し見てみたい。 楠木正成が、九州から東上した足利尊氏の軍に、兵庫湊川で新田義貞らとともに敗れ、正成が戦死したのが、1336年(建武3年)のことだった。 南北朝時代は、この1336年(建武3年・延元元年)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってから、1392年(明徳3年・元中9年)後亀山天皇が京都に帰る明徳の和約(南北朝の合一)までの57年間。 南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。

南朝の正平2年は、1347年で、北朝の貞和3年である。 湊川の戦いから、11年、楠木多聞丸正行は21歳だった。 後村上天皇が即位したのは、8年前の延元4(1339)年で、11歳(数え12歳)だったから、天皇は正行の二つ下の勘定になる。

「人よ、花よ、」となる四条畷の戦いは、翌1348年、正平3年・貞和4年である。 南朝・楠木正行と、北朝・高師直の戦いで、正行は師泰と戦い、『人よ、花よ、』では描かれなかったが、正行は弟正時と刺しちがえて自害した。 楠木多聞丸正行は、なんと22歳の若さだった。

建武(けんむ。けんぶ、とも)…後醍醐天皇朝の年号。元弘4年1月29日(1334年3月5日)改元、建武3年2月29日(1336年4月11日)延元に改元。北朝では建武5年8月28日(1338年10月11日)まで用い、暦応に改元した。

興国(こうこく)…南朝、後村上天皇朝の年号。延元5年4月28日(1340年5月25日)改元、興国7年12月8日(1347年1月20日)正平に改元。 なお、後村上天皇の即位は、延元4年8月15日(1339年9月18日)、吉野の行宮(行幸の仮の宮)で。 興国元年は北朝の暦応3年、興国3年は北朝の康永元年、興国6年は北朝の貞和元年にあたる。

正平(しょうへい)…南北朝時代の南朝、後村上・長慶天皇朝の年号。興国7年12月8日(1347年1月20日)改元、正平25年7月24日(1370年8月16日)建徳に改元。

貞和(じょうわ。ていわ、とも)…北朝、光明・崇光(すこう)天皇朝の年号。康永4年10月21日(1345年11月15日)改元、貞和6年2月27日(1350年4月4日)観応に改元。

今村翔吾さん『人よ、花よ、』の「あらすじ」2024/04/22 07:12

[第四章「最古の悪童」]昔なじみの灰左と吉野衆が、大悪党金毘羅義方の手勢に囚われ、多聞丸は6人で山中の本拠に潜入して、救い出す。 [第五章「弁内侍(べんのないし)」]多聞丸は大塚惟正に、楠木家は北朝に付こうとしていることを明かす。 帰順の道筋を探っていると、北朝の高師直が執着している弁内侍という美しい女官が浮かぶ。 [第六章「追躡(ついじょう)の秋(とき)」]弁内侍は吉野へ向かって出立し、多聞丸は、高師直が指図したらしい襲撃から、弁内侍を救い出す。 [第七章「皇(すめらぎ)と宙(そら)」]多聞丸は、楠木正成の三男、弟の虎夜叉丸を観心寺に訪ね、還俗したいという弟を許さない。

[第八章「妖(あやかし)退治」]正月支度に追われる師走の楠木館を、弁内侍の茅乃が訪れ、刺客に襲われた後村上帝を守ってほしいと願い出る。 多聞丸は大塚惟正らと相談し、吉野の御所の年賀の儀式に公人(くにん)に化けて潜り込む。 北朝の高師直は、弟の師泰と、南朝の帝の暗殺をたくらむ足利直義の真意に考えをめぐらせる。 [第九章「吉野騒乱」]公人に化けて御所に潜り込んだ多聞丸たち、石掬丸が夜御殿の油の異変に気付く。 刺客の夜襲を受けた御所で、多聞丸は、阿野と名乗る公家、実は後村上帝(南朝第三代天皇)と会い、護る。 戦いを終えた20日後、多聞丸たちは、楠木館に戻る。

 [第十章「牢(いけにえ)の血」]多聞丸は、楠木党の総勢256人で、吉野の南朝御所へ行き、後村上帝に謁見する。 その謁見の場で、居並ぶ廷臣たちに、北朝と和議を結ぶべきだと、高らかに宣言した。 北畠親房らに、衝撃が走る。 後村上帝から、単身で北朝に降るために連れ出してくれと持ち掛けられた多聞丸は、後村上帝とともに生きる道を探ると決めた。 楠木党の総意を確かめた後、南朝を牛耳る北畠親房に、あくまでも和議を結ぶための手段として、決起することを伝える。 弁内侍こと茅乃から、出生の秘密を聞いた多聞丸は、五分咲きの桜を見ながら、自らの思いを打ち明けた。

 [第十一章 「蕾(つぼみ)」]半年後の正平2年8月10日、楠木党はついに決起する。 一方、北朝の高師直と師泰の兄弟にも、楠木多聞丸正行決起の報が届く。 第十二章「東条の風」楠木党は、たちどころに紀伊国の隅田城を落とし、昔なじみの灰左ら吉野衆とも合流し、800騎の軍勢となった。 次なる相手は3千余騎の細川軍、多聞丸は父正成から伝わる蕾陣を発展させ、花陣と名付けた戦術を用いて、夜襲をかける。

 [終章 「人よ、花よ、」]連戦連勝に沸く楠木党のもとに、吉野の南朝より突如として、大量の綸旨が発せられたとの知らせが舞い込む。 それは、今こそ京を奪い返せと日ノ本中に呼びかける大動員令だった。 多聞丸たちの運命は、大きく動き出すことになる。

今村翔吾さんの『人よ、花よ、』を、振り返る2024/04/21 07:27

2022年8月15日から今年3月31日の576回まで朝日新聞朝刊に連載された今村翔吾さんの『人よ、花よ、』(北村さゆり・画)は、楠木正成の子、楠木多聞丸正行(たもんまるまさつら)が主人公の物語である。 前にも書いたが、今村翔吾さんは、月末や新聞紙面の切れのいいところで、物語を展開したり、章立てすることは、気にしない自由な感覚の方らしい。 そのため、全体の構成は、下記の章立てになっているのだが、その章の始まりを見つけるのが大変だった。

第一章「英傑の子」 2022年8月15日
第二章「悪童」 10月3日 49回
第三章「桜井の別れ」 11月17日 92回
第四章「最古の悪童」 2023年1月4日 138回
第五章「弁内侍」 2月17日 181回
第六章「追躡(ついじょう)の秋(とき)」 3月27日 218回
第七章「皇(すめらぎ)と宙(そら)」 5月8日 259回
第八章「妖(あやかし)退治」 7月3日 313回
第九章「吉野騒乱」 8月13日 353回
第十章「牢(いけにえ)の血」 9月30日 399回
第十一章 「蕾(つぼみ)」 11月26日 454回
第十二章「東条の風」 1月5日 492回
終章 「人よ、花よ、」 2月25日 542回

 この日記には2023年2月に、父楠木正成の活躍と時代状況、「桜井の別れ」までを、下記に詳しく書いた。
貨幣経済背景の織田家、それ以前、物流に活路の楠木家<小人閑居日記 2023.2.14.>
『太平記』と「仮名手本忠臣蔵」<小人閑居日記 2023.2.15.>
「英傑の子」楠木多聞丸正行<小人閑居日記 2023.2.16.>
楠木正成、百倍の敵を相手に「悪党の戦」<小人閑居日記 2023.2.17.>
楠木正成、再び起つ<小人閑居日記 2023.2.18.>
楠木軍が河内、和泉を席捲、護良親王も起つ<小人閑居日記 2023.2.19.>
楠木正成の夢、「英傑」となった理由<小人閑居日記 2023.2.20.>
楠木党、多聞丸正行周辺の人々<小人閑居日記 2023.2.21.>
多聞丸は、この戦が馬鹿々々しいと思っている<小人閑居日記 2023.2.22.>
足利高氏、新田義貞も叛旗、鎌倉北条を倒す<小人閑居日記 2023.2.23.>
悪党の力だけで京を奪う「夢」の行方<小人閑居日記 2023.2.24.>
護良親王の死、足利尊氏の興敗、再起<小人閑居日記 2023.2.25.>
尊氏が京に迫り、正成は後醍醐帝に呼ばれる<小人閑居日記 2023.2.26.>
楠木正成、多聞丸正行「桜井の別れ」<小人閑居日記 2023.2.27.>
湊川の合戦と、吉野南朝の始まり<小人閑居日記 2023.2.28.>

その後の、多聞丸正行活躍の物語は、2023年1月4日138回の途中で第四章「最古の悪童」に入った。
                        第四章からの「あらすじ」は、また明日。

「細川家の存続を願った細川ガラシャ」2024/04/20 07:01

 「本能寺の変」とキリシタン教会、細川ガラシャの関係については、2020年に浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書)を読んで、詳しく記したことがあった。 その内、細川家や細川ガラシャの関わりについて書いた、「明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか<小人閑居日記 2020.8.4.>」を再録する。 その後、一連の記述をリストしておく。

    明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか<小人閑居日記 2020.8.4.>

 浅見雅一さんは、第四章「光秀の意図」で、周辺の動きを考察する。 光秀は、6月3日に細川藤孝に援軍を要請したらしい、藤孝の息子、忠興の妻は光秀の娘・玉(のちのガラシャ)という姻戚だから、当然期待したところ、藤孝は突如家督を忠興に譲り、剃髪した。 忠興と交渉してくれという返事だったが、忠興も剃髪してしまった。 光秀は、かなり状況が逼迫していたのだろう、9日に二度目の要請をして、政権を自分の息子の十五郎と娘婿の忠興に譲りたいと申し出たが、細川家はこの要請も断っている。

 浅見雅一さんは、光秀は、オルガンティーノが高山右近に、光秀に与しないように促すであろうと推測していた可能性があるとする。 それでも教会に危害を加えようとしていないのは、息子たちのことが念頭にあったからではないか。 本能寺の変のあと、右近は、光秀に与しなかっただけでなく、光秀を討つ側に回っている。 しかも、坂本城の攻略では、右近が先鋒を務めており、明智秀満が率いる籠城側は戦うことなく自刃しているのだ。

 浅見雅一さんが「本能寺の変」に興味を持ったのは、妻で青山学院大学准教授の安廷苑(アンジョンウォン)さんが『細川ガラシャ―キリシタン史料から見た生涯』(中公新書)を執筆中、ガラシャが変を起こした父をどう思っていたのか、右近を恨んでいなかったのかと、訊かれたのがきっかけだったそうだ。 安廷苑さんによれば、ガラシャに洗礼を授けることを決めたのも、司教(信徒を導くこと)を担当したのも、オルガンティーノであった。 浅見雅一さんは、オルガンティーノは、父光秀のこと、坂本城で自刃した妹や弟十五郎たちのことをガラシャに伝えたのではないか(直接会ったことはない、書翰や伝言でやりとりしていた)、とする。 ガラシャと明智家を結びつけたのは、オルガンティーノ、キリシタン教会だった。

 浅見雅一さんは、光秀がなぜ謀反を起こしたか、明智家の存続が脅かされるような事態が発生し、それは信長との関係によるものなので、信長を殺害すれば回避できるからであった、と推論する。 明智家を、もっとはっきりいえば、嫡子十五郎を守ろうとしたのではないか。 そして光秀が、謀反を起こしてまで守ろうとしたものは、娘ガラシャの死に反映されている、とする。 (ガラシャは、1600(慶長5)年関ケ原の戦いで忠興が出陣中、石田三成から大坂城に入り人質になるよう命じられるが拒否、玉造の細川邸を包囲され、家老に自らを斬らせて果てた。) 父光秀の仇である豊臣方の人質になることなど、光秀の娘として到底受け入れられなかったはずである。 彼女が自らの命よりも優先したのは、細川家の存続であり、彼女の息子が家督を継ぐことだった(三男、忠利が継いだ)。

 「本能寺の変」という歴史的大事件をめぐって、キリシタン史料を再検討していくと、光秀と子供たちとの親子関係、キリシタン教会がつなげた親子の絆が伝わってくる、と浅見雅一さんは結論する。

浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』を読み始める<小人閑居日記 2020.7.29.>
フロイスの報告書「信長の死について」<小人閑居日記 2020.7.30.>
信長の自己神格化、摠見寺建立<小人閑居日記 2020.7.31.>
信長の中国大陸征服計画と秀吉の朝鮮出兵<小人閑居日記 2020.8.1.>
「本能寺の変」当日の動き<小人閑居日記 2020.8.2.>
オルガンティーノの逃避行と光秀、右近<小人閑居日記 2020.8.3.>
明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか<小人閑居日記 2020.8.4.>
織田信長のつくった城<小人閑居日記 2020.8.5.>
久秀・光秀の城、信長の城との違い<小人閑居日記 2020.8.6.>
信長の安土城と、光秀の坂本城<小人閑居日記 2020.8.7.>
領主光秀の優しさ、信長への我慢の限界<小人閑居日記 2020.8.8.>
城とビジョンの違いから「本能寺の変」へ<小人閑居日記 2020.8.9>