「朝鮮改造論」「リベラルな帝国主義」の敗北2016/06/29 06:19

 兪吉濬は、1907(明治40)年8月に皇帝純宗の特赦により帰国した後、宮 内庁特進官に任命されるが辞退。 「自由平民」の立場から漢城府民会会長、 興士団副団長、各種会社の顧問、学校の校長・顧問などを務める。 1910年、 朝鮮貴族令により男爵を授けられるが辞退。 1914年9月30日、腎臓炎によ り死亡。 結局、朝鮮で活躍することは、ほとんどなかった。

 月脚達彦教授は講演のなかで、福沢は日本が朝鮮を併呑するというような考 えはほとんど持っていなかった、と語ったように記憶していたので、著書『福 沢諭吉の朝鮮―日朝清関係のなかの「脱亜」』(講談社・2015年)から、関係す ると思われる部分を、「おわりに」から引いておく。

 「福沢の「朝鮮改造論」を多国間の関係に位置づけると次のようになろう。 まず、日本も西洋諸国の侵略の危機にさらされているという立場から朝鮮の「独 立」を唱えた福沢の「朝鮮改造論」は、今日の一般的な福沢評価とは異なり「ア ジア主義」的な心情にもとづいていた。ところが壬午軍乱以降、朝鮮「独立」 論を主張することは、最強硬の対清・対朝鮮政略論になる。清の側からしてみ れば、福沢の「朝鮮改造論」は自国の「属邦」を奪おうとする挑発である。福 沢は壬午軍乱や甲申政変の際に本気で対清開戦論を唱えたわけでは必ずしもな いが、1894(明治27)年6月の日本軍の朝鮮派兵を機に、熱烈な日清開戦論 を展開した。日清戦争以前に関していえば、福沢は朝鮮「独立」の支援者だっ たからこそ、今日アジア侵略論者と見なされることになるのである。

しかし、福沢の「朝鮮改造論」が日本の支援による朝鮮の「独立」を掲げる ものである以上、日清戦争中であっても福沢は、日本による朝鮮の保護国化や 併呑には反対した。1885(明治18)年の巨文島事件ののち日清戦争前夜まで、 朝鮮「独立」論を掲げられずに朝鮮問題について沈黙したりそれを棚上げした りしたことからわかるように、福沢は西洋諸国の動向に極めて敏感だった。福 沢にとって、朝鮮の「独立」を標榜する日本が逆にそれを保護国にしたり併呑 したりすることは、西洋諸国(とくにロシア)からの「憎悪」を買うものであ るため、あってはならないことなのである。

福沢が朝鮮について主張する日本の利益は、「商売貿易」上の利益という「自 由貿易帝国主義」的なものであった。自由貿易に反する「攘夷排外の気風」、お よびそれを属性とする儒教思想に敵意を懐く福沢は、リベラルの立場から成立 期の日本の帝国主義を先導していったと位置づけられよう。しかしそうした「リ ベラルな帝国主義」も、福沢の死後、日露戦争を経て日本政府が大韓帝国を「併 合」(「公式帝国化」)し、同化主義的支配政策を施行することによって、最終的 に敗北することになったのである。」

兪吉濬と福沢諭吉の「朝鮮改造論」後半2016/06/28 06:38

 (2)甲申政変・巨文島事件と「朝鮮改造論の放棄」。

 1884(明治17)年12月4日、甲申政変起こる。 巨文島事件は、1885(明 治18)年4月、イギリス海軍が巨文島(対馬と済州島の間、朝鮮半島寄りにあ る)を占領(1887年まで基地)、英国とロシアの対立が朝鮮に及び、ロシアに よる対馬占領の危機感が高まる。 『時事新報』1885年8月13日社説「朝鮮 人民のために其国の滅亡を賀す」。 巨文島の人民は朝鮮政府に支配されるより も、「強大文明国」イギリスに支配されるほうが幸福だ。 福沢はここで、日本 がアジアの盟主として朝鮮の文明化と独立を成就させる「朝鮮改造論」を完全 に放棄した。 朝鮮が事実において清の「属領」であることを黙認して、ロシ アの脅威を清の危険負担で回避させようとした明治政府に対する、朝鮮が清の 「属領」であることを認めたくない福沢の批判という側面もある。

兪吉濬はアメリカを出発して、1885(明治18)年11月15日横浜に到着、 12月2日横浜を出発、長崎経由で、12月21日仁川に到着する。 この間、金 玉均、福沢に会ったと推察されるが、不明。 帰国後、甲申政変関係者として 軟禁され、軟禁下で『西遊見聞』を輯述し、1889(明治22)年脱稿、前述の 交詢社での出版(印刷は秀英舎)は1896(明治29)年。 この間、1892(明 治25)年にソウルから出ない条件で軟禁を解除される。

 兪吉濬は、慶應で知り、同じく米国留学中の福沢一太郎、捨次郎(マサチュ ーセッツ工科大学に在学)と、E・S・モースの関係もあり、親しかったよう だ。 福沢はモース宛の書簡(1884年8月13日付)で兪吉濬が世話になって いる礼を述べ、捨次郎からの問い合わせに答え、兪吉濬は帰国後軟禁されたそ うで「野蛮国の悪風これを聞くも忌わしき次第なり。何れにしても箇様なる国 は一日も早く滅亡する方天意に叶ふ事と存候。」(1886年10月26日付)と書 いている。

 (3)甲午改革の第4次金弘集内閣と「朝鮮改造論」。

 日本軍による景福宮占領と閔氏政権の打倒に続き、1894(明治27)年7月 27日朝鮮政府に軍国機務処が設置され、甲午改革と呼ばれる約1年半におよぶ 近代的改革が始まった。 兪吉濬は、1894年6月23日再び統理交渉通商事務 衙門主事に、そして軍国機務処会議員に任命される。 1895(明治28)年7 月には内部署理大臣になり、10月8日の王后閔氏殺害事件の後、12月には内 部大臣に任命され、主務大臣として「断髪令」(サントゥと呼ばれる男性の「ま げ」を強制的に切る)を発布する。 『時事新報』は、1896(明治29)年1 月23日の社説「朝鮮政府に金を貸す可し」で、日清戦争以後、朝鮮政府が日 本に「依頼」するようになったとし、金弘集内閣の兪吉濬による「断髪令」に 至って、明治維新以来の日本をことごとく模範とした改革が実現しつつあると、 期待を表明した。

 ところが金弘集内閣は脆弱で、1896(明治29)年2月11日、朝鮮国王高宗 が王太子とともに貞洞のロシア公使館に避難するという「俄(露)館播遷(が かんはせん)」事件が発生、金弘集総理大臣、魚允中度支那大臣らは捕らえられ て殺害され、兪吉濬らは日本に亡命する。 兪吉濬は、1907(明治40)年の 皇帝純宗の特赦による帰国まで、12年間亡命。 1902(明治35)年に皇帝高 宗廃位クーデター計画の露呈により、小笠原に送られ、のち八丈島に移る。 福 沢は、俄館播遷ののちに「朝鮮改造論」を再度放棄したまま、1901(明治34) 年2月3日に亡くなるのだが、その口惜しさは『福翁自伝』において言外にに じみ出ている。

兪吉濬と福沢諭吉の「朝鮮改造論」前半2016/06/27 06:22

 3. 兪吉濬と福沢諭吉の「朝鮮改造論」

 (1)兪吉濬らの受け入れ。

 兪吉濬は1881(明治14)年、朝士・魚允中の随員として訪日、6月8日柳 定秀とともに慶應義塾に入学した。 前年における李東仁との接触、修信使金 弘集の東京訪問。 福沢の小泉信吉・日原昌造宛6月17日付書簡、「二名とも 先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前自分の事を思へ ば同情相憐むの念なきを不得」、「右を御縁として朝鮮人は貴賤となく毎度拙宅 へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開 らける様に致度事に御座候。」 ⇒『時事小言』第四編における「アジア(朝鮮) 改造論」執筆。 自家を石室にしても隣家が木造板屋であれば「類焼」は免れ ないと譬え、脅迫してでも進めるべき朝鮮の「進歩」=「文明」化は、西洋勢 力の東漸から日本の「独立」を守るために、朝鮮の「独立」を守るためのもの だとする。

 福沢は、朝鮮問題について、挫折を繰り返す。 開化派は、福沢の思うよう にならなかった。 第一の挫折は、1882(明治15)年7月の壬午軍乱。 清 が属邦保護の名目で介入、大院君が清に連れて行かれ、閔政権が復活する。 『時 事新報』は沈黙。 12月、修信使朴泳孝一行が帰国、竹添進一郎(弁理公使) の赴任、牛場卓蔵(朝鮮政府顧問)・(随員)高橋正信・井上角五郎の派遣、兪 吉濬は閔泳翊とともに下関で合流する。

 兪吉濬は、1883(明治16)年2月統理交渉通商事務衙門(がもん)主事に 任命され、漢城府判尹朴泳孝が開設した漢城府新聞局で、牛場卓蔵の朝鮮での 文化事業である新聞創刊に従事し、福沢の「世俗文」の応用である、「国漢文」 つまり漢文・ハングル混合文体での発行を目指すが、朴泳孝が判尹の職を解か れ、二か月で頓挫する。 井上角五郎の関与で(朝鮮初の近代新聞)『漢城旬報』 が漢文で発行される。 (馬場は以前『漢城旬報』が初めて漢文・ハングル混 合文体を実用化したと書いていたが、それは1886(明治19)年の『漢城周報』 で、その創刊に井上角五郎が参画したと『福澤諭吉事典』「井上角五郎」にある。)   前出の兪吉濬の1883(明治16)年の著作「競争論」『世界大勢論』は「国漢文」、 つまり漢文・ハングル混合文体で、ハングル(本国文)が漢文より優れている という文字ナショナリズムの出発点。 福沢の『時事小言』『世界国尽』より、 内田正雄『輿地誌略』(1870(明治3)年)が原本。

 兪吉濬は1883(明治16)年7月日本を経て、朝鮮初の米国留学生として、 マサチューセッツ州セーラムのエドワード・S・モース宅に寄宿、のちにガヴ ァナー・ダンマー・アカデミーで大学入学準備。

月脚達彦教授の「近代朝鮮と福沢諭吉」2016/06/26 06:57

 5月28日、交詢社で福澤諭吉協会の総会があり、記念講演で月脚達彦さん(東 京大学大学院総合文化研究科教授)の「近代朝鮮と福沢諭吉」を聴いた。 専 門は朝鮮思想史、とくに近代の朝鮮半島におけるナショナリズムの形成と展開 という。 著書に『朝鮮開化思想とナショナリズム―近代朝鮮の形成』(東京大 学出版会・2009年)、最近も『福沢諭吉と朝鮮問題―「朝鮮改造論」の展開と 蹉跌』(同・2014年)、『福沢諭吉の朝鮮―日朝清関係のなかの「脱亜」』(講談 社・2015年)を刊行した。

 案内の講演要旨は、「福沢諭吉は、慶應義塾への朝鮮人学生の受け入れ、金玉 均・朴泳孝・閔泳翊ら朝鮮の開化派や政府要人との接触などに見られるように、 明治10年代から20年代において朝鮮ともっとも深い関わりを持った知識人の 一人だった。逆の言い方をすれば、朝鮮の「開化」において福沢は最も重要な 知識人の一人である。しかし、朝鮮近代史研究において、このような観点から の研究は、必ずしも盛んだとは言えない。こうした研究の状況を踏まえて、本 講演は特に慶應義塾が1881(明治14)年に初めて受け入れた朝鮮人学生であ る兪吉濬(ゆきっしゅん・ユギルチュン)を中心に、近代朝鮮と福沢諭吉に関 する研究の現状と課題、史料の状況について報告する。」

 講演の構成は、1. 朝鮮開化派研究と福沢諭吉、2. 兪吉濬の著作、3. 兪吉濬 と福沢諭吉の「朝鮮改造論」。

 1. 朝鮮開化派研究と福沢諭吉。  内在的発展論:「甲申政変=ブルジョア改革」論(朝鮮民主主義人民共和国社 会科学院歴史研究所編(日本朝鮮研究所訳編)『金玉均の研究』日本朝鮮研究所・ 1968年):一国史と近代主義。 姜在彦による開化派・開化思想研究: 甲申政 変→独立協会→愛国啓蒙運動→3・1運動、福沢諭吉との関係への着目:「開化 派にとっての日本」(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』平凡社・1977年、初出1974 年) 青木功一の朴泳孝研究(青木功一『福澤諭吉のアジア』慶應義塾大学出 版会・2011年、初出1969年): 朴泳孝「建白書(上疏)」と福沢諭吉の著作: 「朝鮮国内政ニ関スル朴泳孝建白書」(外務省編『日本外交文書』第21巻)

2. 兪吉濬の著作  『西遊見聞』全20編(交詢社・1896(明治29)年):1969年に韓国で復刻。 『兪吉濬全書』全5巻(一潮閣、ソウル・1971年):西洋見聞編、文法・教 育編、歴史編、政治経済編、詩文編。 『西遊見聞』出版の経緯は李光麟『韓国開化思想研究』(一潮閣、ソウル・ 1979年)。 交詢社で出版されていて、月脚さんはそれを交詢社で講演するの は興奮する、と。 自費出版だったと思われ、福沢の金銭出入帳に450円の出 費がある。 福沢の影響が大きく、福沢の思想から取り入れた。 『西洋事情』 外編からが多いが、そのままではない(『朝鮮開化思想とナショナリズム』第2 章。比較対照表がある)。 『西遊見聞』の文体は「国漢文」(ハングル・漢字 混用)。 朴泳孝らは漢文で書いていたが、兪吉濬は科挙を受験していなかった。  日本語の上達が早く、留学中の日本語による習作(『郵便報知新聞』1881年12 月28日「弄筆閑話」、『時事新報』1882年4月21日寄書「新聞の気力を論ず」) がある。 兪吉濬の『西遊見聞』執筆の頃の状況については、後述する。

「プラグマティズム」の考え方2016/06/25 06:21

 このところ朝日新聞について厳しいことを書いてきたが、毎朝夕、朝日新聞 を読んでいる。 最近の記事でいいなと思ったのは、「文化の扉」の「プラグマ ティズム」のまとめだ(5月29日、池田洋一郎記者)。 民族紛争や宗教的対 立など、それぞれが主張する正義同士がぶつかり合う現代。 異なる考え方や 信念の共存を目指す試みとして、19世紀の米国生まれの思想「プラグマティズ ム」が注目されている。 どんな考え方なのか。 というのがリード文で、「異 なる信念の共生へ 試行錯誤」という見出しが立っている。

 19世紀後半の米国では思想的対立が深まった。 一つは、南北戦争(1861 年~65年)、奴隷制反対派 対 奴隷制容認派。 もう一つは、進化論の影響(1859 年、ダーウィン「種の起源」発表)、キリスト教信仰(神による天地創造) 対 科 学的探究の進歩。 60万人以上が戦死した南北戦争が終わって間もないころ、 このままではいけない、思想や信念の違いで争うのは馬鹿げているというので、 論理学者パースや哲学者ジェイムズらが集まった私的な研究会から生まれた思 想が「プラグマティズム」だ。

 「プラグマティズム」の考え方。 ○唯一絶対の真理は存在しない→多様な 価値観を認める(多元主義)。 ○有限な人間が抱く信念や意見は常に誤り得る (可謬主義)。 ○概念や知識は経験や実践により検証され、その結果が有用で あれば真理と認める。 ○知識や思想は問題を解決するのに「役立つ道具」で ある。

 チャールズ・サンダース・パース(1839~1914)が提唱し、ウィリアム・ジ ェイムズ(1842~1910)はそれを継承・発展させ、広めた。 20世紀に入り、 ジョン・デューイ(1859~1952)は、適用範囲を教育や芸術、民主主義などに 広げ、「知識は問題解決に役立つ道具」とする道具主義を確立した。 

 大賀祐樹聖学院大学講師は、こう説明する。 「すべてを解決できる『唯一 の正しさ』には到達できないが、その時々の問題の解決に有用な『それなりの 正しさ』には到達できる。暫定的な真理を肯定し、間違いが見つかれば修正す る。柔軟な多元主義。」 問題解決への仮説を立て、実践によって検証を繰り返 し、その都度修正を加え、より良き方法を求める。 知識はそのための道具と いう考えだ。 「あきらめることなく対話を継続してコミュニケーションを図 り、相互理解の可能性を探る。」

 答えがすぐにわからない今の時代、探求や行動を重んじ、実験を重視し、と もかくやってみようという「プラグマティズム」の姿勢は、地方の町おこしや NPO活動、民主デモなど、様々な社会活動に影響を与えているという。