「それ引け、やれ引け、広辞苑」2017/12/18 07:14

 辰濃和男さんが登場するので、まずご紹介するのは、来年第七版が出るとい う『広辞苑』の話である。 1990(平成2)年、『広辞苑』は満三十五歳を迎え ていた。 すると、来年は六十二歳、還暦を過ぎていたことになる。 ちなみ に、第六版の「たにあい【谷間】」は「谷のなか。たにま。「―の村」」となって いる。

    それぞれの『広辞苑』 <等々力短信 第547号 1990.10.25.>

 『広辞苑』が満三十五歳になったというので、岩波書店の『図書』は今年の 一月号から、各分野で活躍している方々の「『広辞苑』と私」というコラムを連 載している。

 六月号の山住正己さん(東京都立大学・教育学)は、第一版第一刷の「谷間」 の項に、ものすごい記述があったことを、雑誌『世界』の放談会で杉浦明平さ んに教わり、出席の先生方と大笑いしたという。 「たにあい」の解釈に「谷 と谷のあいだ」と、あったのだそうだ。 山住さんは「第二版からは私も執筆 者の一人となったので、批評をしているだけではすまない。専門分野の項目を 中心に検討しつづけなければいけないと思っている」と、その「次第に正確な 項目を増やす」と題した文を結んでいる。

 八月号の木下順二さんは、「遊び」の本として、『広辞苑』を楽しむ。 馬に 感心を持っている木下さんは、馬についての見出し語を、ぶうぶういうセクレ タリに手伝ってもらいながら、総点検したのだそうだ。 たとえば「下馬」を 含む見出し語だけども、「下馬売」「下馬将軍」「下馬雀」「下馬牌」「下馬評」な どがあり、それら馬用語の解説と関連項目の解説などを読み合わせてみている と、「室町から江戸期へかけての社寺や貴人の門前で主人とそのお供がつくりだ す光景や、正月初乗(はつのり)からその他武家の乗馬万端の光景を、ちょっ と気取っていえば、髣髴と浮び上らせてくれるようなのである」という。 武 家の正月乗初(のりぞめ)では、「馬場始(はじめ)」などという、個人的に興 味をひかれる項目があるのを知った。 さっそく『広辞苑』で「馬場」を引く と、出るは出るは「馬場――退(の)け」「馬場金埒(きんらち)」「馬場孤蝶」 「馬場先」「馬場先門」「馬場佐十郎」「馬場三郎兵衛」「馬場末」「馬場辰猪」「馬 場恒吾」「馬場殿」「馬場の舎(や)」「馬場乗」「馬場文耕」「馬場見せ」「馬場本 (もと)」と出た。 これらの解説を読んで、『広辞苑』の関連項目を、あちこ ちひっくりかえしているだけでも、秋の夜長を楽しめそうだ。 『広辞苑』の、 ふところは、まことに深い。

 足かけ十四年、四千回近い「天声人語」を書いた辰濃和男さんは、九月号で 「それ引け、やれ引け、広辞苑、ご利益あるまで引き続け……」と、ぶつぶつ つぶやきながら、三冊の『広辞苑』の表紙を真ッ黒にしてきたという。 削り たての鉛筆を何本もそろえておいて、原稿を書く。 シンの先がパシッと折れ て飛ぶ。 その無数の黒い点が、辰濃さんの『広辞苑』の地の部分に、小さな 弾痕のように刻み込まれているという。

辰濃和男さんの「等々力短信」千号スピーチ2017/12/17 07:03

 辰濃和男さんが亡くなられたことを、13日の朝刊で知った。 6日に老衰の ため都内の病院で、87歳。 1953年に朝日新聞社入社、ニューヨーク支局長、 東京本社社会部次長、編集委員を経て論説委員となり、75年~88年に「天声 人語」を書いた、とある。

 辰濃和男さんとのご縁が、どのように始まったのか、忘れてしまったが、お そらく1975(昭和50)年12月に書き始められた「天声人語」を読んで、感想 か質問の手紙を出したからではなかったか。 私は同じ年の2月に「等々力短 信」の前身「広尾短信」をハガキ通信として始めていたから、ご縁が出来て以 来、ずっと辰濃和男さんにお読みいただくことになったのだった。

 やがて毎年、読書の秋になると、辰濃和男さんから、宅配便のダンボールで どっさり新刊書(朝日新聞社の出版物を中心に、広い分野の)を送っていただ くようになった。 後進のささやかな個人通信を応援して下さる、ずしりと重 いそのお気持をうけとめるたびに、身も心もひきしまる思いがした。 平成2 (1990)年に頂いた本の中に、島戸一臣さんの『新・青べか物語』(朝日新聞 社)があって、それを「等々力短信」551号、552号で紹介したことから、私 は島戸さんが社長をしておられた(株)アトソンのパソコン通信・ASAHIパソ コンネットに「等々力短信」を配信することになり、それが今日のブログ「小 人閑居日記」につながっているのである。

 辰濃さんとの一番の思い出は、2009年 7月4日の「『等々力短信』1,000号 を祝う会」で、読者代表のお一人としてスピーチをして下さったことだ。 7 月9日の<小人閑居日記>「夢心地のお祝いスピーチ」に、舞い上がった私は、 こう記録していた。

 最初は朝日新聞の「天声人語」を、足かけ14年四千回近くお書きになった 辰濃和男さん。 辰濃さんが「天声人語」を書き始めたのは1975(昭和50) 年12月からだから、同じ年に始まった「等々力短信」は「戦友」のようなも のだと、まず話された。 「等々力短信」の「力」について沢山書いてきたと 草稿を示し、5分といわれたのでと、四つにしぼった。 (1)落語の力…漱石 の文章にもある落語の影響が色濃い。 (2)福沢諭吉の力…福沢学の大家、 福沢の強い味方、脱亜論や複眼の思想などを説明。 (3)やじ馬的な力…世 の中の新しいコト、モノに鋭敏な感受性をもち、独自の見方で調べにゆく精神。 「等々力短信」で紹介された本を何冊も本屋へ買いに行った、たとえば『笑う カイチュウ』(696号・藤田紘一郎著)。 (4)まとめ力…自著『文章のみがき 方』をとりあげた短信(982号)は、書いた自分がまとめるよりよくまとまっ ていた、馬場さんにはいつか『文章のまとめ方』という本を書いてもらいたい、 と。

 あらためて「等々力短信」を振り返ってみると、辰濃和男さんの書かれたも のや、ご本を何冊かを読んで、いろいろと学ばせてもらっている。 それを順 次紹介させていただくことにする。

中根東里と司馬遼太郎の栃木・佐野2017/12/16 07:24

 さらに『日本史の内幕』で興味を持ったのは、以前、磯田道史さんの『無私 の日本人』(文春文庫)で読み、ブログにも書いた中根東里と、司馬遼太郎の縁 についての話だった。 私が書いたのは、

「等々力短信」第1072号 2015(平成27).6.25. 磯田道史著『無私の日本人』

http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/06/25/7679732

天才儒者・中根東里、知られざる大詩人<小人閑居日記 2015.7.2.>

http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/07/02/

 中根東里(1694~1765年)は、「徳川開闢以来、稀有の才である」といわれ た儒者だが、下野国の佐野の「植野(うえの)」という小さな村に庵を結んで、 寺子屋の師匠となり、子供たちを教えて暮した。 中根の死後、寺子屋だけが 残り、それが明治になって植野小学校、植野国民学校と改称された。

 敗戦の色が濃くなった昭和20(1945)年6月、この学校に戦車隊が移駐し てきて、将校たちが学校の裁縫室に寝起きした。 この将校の中に福田さんと いう人がいた。 まだ中根のいた庵は残っており、福田さんは、その横を散歩 しては、植野の村人と歴史の話をしていた。 この福田さんが、どの程度まで 中根の話をきいたのかはわからない。 ただ、ひとついえるのは、戦後この福 田さんが中根のように心をこめて文章を書きはじめたことである。 福田さん のペンネームを「司馬遼太郎」という、と磯田道史さんは書いている。

 司馬遼太郎さんは、『この国のかたち』、4「“統帥権”の無限性」に、佐野の ことを書いている。 ソ連の参戦が早ければ、その当時、満洲とよばれた中国 東北地方の国境の野で、ソ連製の徹甲弾で戦車を串刺しにされて死んでいたは ずだが、その後、日本にもどり、連隊とともに東京の北方、栃木県の佐野に駐 屯していた。 もしアメリカ軍が関東地区の沿岸に上陸してくれば、銀座のビ ルのわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃えあがる自分の戦車の中で骨にな っていたにちがいない。 そういう最期はいつも想像していた、という。

 あの当時、いざという時、戦車隊が南下して、東京方面へ向かう道路は二車 線しかなかった。 東京方面から北関東に避難してくる国民やその大八車で、 道という道がごったがえすにちがいない。 かれらをひき殺さないかぎり、ど ういう作戦行動もとれないのである。 さらには、そうなる前に、軍人より先 に市民たちが敵の砲火のために死ぬはずだった。 何のための軍人だろうと、 司馬さんは思った。

 敗戦の数カ月前、司馬さん(福田さん)たちがいた宿舎は小学校で、まずや ったのは、敵の空襲からの被害を避けるために付近の山々に穴を掘って戦車を かくすことと、校庭に小さな壕(ごう)を掘って、対空用の機関銃座をつくる ことだった。 その作業中、司馬さんはしきりに謡曲の『鉢の木』のことをお もった、という。

 鎌倉のむかし、無名の旅の僧(実は北条時頼)のために宿をし、鉢の木を焚 いて暖をとらせた牢浪の佐野源左衛門尉常世のことである。 源左衛門尉がわ び住まいしていた佐野とはこの土地ではないかと思うと、まわりの山河が泌み 入るように愛おしくなった。

 その後、場所については異説があることを知ったが、この時期はこここそ“佐 野のわたりの雪の夕暮”のあの佐野であると思いこんでいた。

 やがては、源左衛門尉やその妻、あるいは平明な良心だけを政治の心にして いた時頼などが、司馬さんの心のなかで歴史的な日本人の代表のように思われ てきた。 というより、すでに日本に帰りながら、日本のことが恋しくなって いた。 さらにいえば、自らが身を置いている進行中の日本が本当の日本なの かと思ったりした。 降伏後も、数週間、この野ですごした。

 (日本や日本人は、むかしから今のようなぐあいだったのか) という茫々 とした思いを持った。 ひょっとするとむかしの日本や日本人はちがっていて、 昭和という時代だけがおかしいのではないか、とも思ったりした。 司馬さん は、そう書いている。

明治元年、京都堀川の目安箱2017/12/15 07:19

 磯田道史さんの『日本史の内幕』で興味を持った、もう一つ。 橋本五郎さ んが登場した。 10年前、磯田さんは読売新聞の読書委員をしていたという。  その時、特別編集委員の橋本五郎さんが言ったそうだ。 「『目安箱の研究』と いう本を書評したら、著者から手紙をもらった。その内容が一番嬉しかった」 と。 磯田さんも嬉しくなって、「その本なら私も持っています。立命館大学の 大平祐一先生が書かれた本。目安箱だけを研究した珍本です。」と答えた覚えが あるという。 その本には、明治新政府も目安を民衆から集めた、その箱は京 都堀川にも置かれたと書いてあった。

 磯田さんは、京都寺町二条の日課のように通っている古本屋で、厚紙と紐で 綴じられた一冊子を示された。 表紙には「戊辰歳分(ぼしんのとしぶん) 箱 訴(はこそ) 九冊之内 庶務掛」とあり、ある頁には「堀川目安箱」という朱 印が押されている。 かの目安箱に投函された訴状の原本ではないか。 売っ てもらい、家に帰ってむさぼり読む。 面白い。 全部で34通、維新時の京 都付近の民衆の肉声がきこえてくる。

 多いのは新たに発行された紙幣(太政官札)への異議申し立てである。 朝 廷への信用だけで高額紙幣を発行しすぎ。 少額紙幣の発行にとどめて欲しい。  貨幣の混乱状態をどうにかして。 さらに、討幕勢力が攘夷をうたっていたの に、政権を獲ると、外国人を国内に入れ、貿易を盛んにし始めたのも、民衆に は理解できなかったらしい。 さらには、新政府へ出仕する諸藩からの役人が 派手に京都で遊興し、「大酒乱行、女色に耽り」はじめたと、苦言を呈し、そう いう者は「速やかに取りかへ」てくれ、と訴えている。

「我々は「本が作った国」に生きている」2017/12/14 07:02

 磯田道史さんの『日本史の内幕』(中公新書)、大河ドラマ『おんな城主 直虎』 関連以外で、興味を持ったところを書いておきたい。 一つは、「我々は「本が 作った国」に生きている」である。 初出は『新朝45』2015年2月号。 磯 田さんは、日本の出版文化の充実ぶりは、世界を見渡しても類例がない、それ は江戸時代の遺産といってよく、江戸日本は世界一の「書物の国」で硬軟さま ざまな本が流通していた、と言う。 幕末史は書物で動かされた面があったと して、例を挙げる。 頼山陽の『日本外史』や『通義』、武家の興亡や、日本は だれがどのように治めてきたか、歴史を繙きながら、いかにあるべきかを説い ている。 これによって江戸後期の日本人は、時間のタテ軸による社会の変化 のあり様を知った。 清の思想家・魏源(ぎげん)の『海国図志』、西洋列強が 覇を競う世界情勢を克明に記したもの。 もともとは清の国政改革を促そうと した書物だが、これにより日本人は空間のヨコ軸で、世界で何が起きているか を知った。 阿片戦争に危機感を募らせていた知識層に読まれ、佐久間象山や 吉田松陰は大きな影響を受けた。

 当時の出版文化がすごいのは、江戸、京、大坂などの大都市だけではなく、 各藩、各地域の村々まで書物が行き渡っていたことである。 武士・神主・僧 侶の家に四書五経が揃っていたのは当り前で、むしろ庶民の家にも多くの書物 があった。 江戸時代に出されたさまざまな本が、職業知識や礼儀作法、健康 知識などのインフラを築いていた。 そこが中国や朝鮮とは決定的に違う。 中 国や朝鮮には高度の儒教文化や漢方医学の体系があったが、科挙の受験者や一 部専門家の知識に留まった。 ところが日本では、仮名交じりの木版出版文化 で、本によって女性や庶民へ実学が広がった。 識字率の高い、質の高い労働 力の社会ができあがった。 いわば「本」こそが日本を作ったといってよい。  大砲が日本を作ったのではない。 すぐに大砲も自動車も自前で作れるように なったが、日本人の基礎教養は、長い時間をかけて「本」が作り上げた。 こ の点が重要である。

 日本が植民地にならず独立を守れたのは、単に遠い島国だったからではない。  島国というならフィリピンもスマトラも、みな植民地になっている。 日本が 独立を保ってこられたのは、自らの出版文化を持ち、独自の思想と情報の交流 が行われたからである。 歴史家としていいたい。 この社会はその重みをも う一度かみしめなくてはならない。

 磯田道史さんのこの議論には、まったく同感した。 この4か月の「等々力 短信」には、つぎの4本を書いていたからである。 8月25日・第1098号「読 書と「引き出す」」、9月25日・第1099号『R.S.ヴィラセニョール』(フィリ ピン史)、10月25日・第1100号『文明としての徳川日本』、11月25日・第 1101号「『西洋事情』の衝撃」。