坪井信良、そして古田杏輔と川北元立2005/06/02 08:23

福沢と適塾生との交流について話した芝哲夫さんの講演の柱は、山口良蔵の ほかに、坪井信良、古田杏輔と川北元立、高橋順益、長与専斎(長与に関連して 適塾生ではないが北里柴三郎)だった。

坪井信良は、緒方洪庵が若い時江戸へ出て蘭学を学んだ師、坪井信道の養子 (信道の子で、信良の弟にあたる信友も適塾に学んだが破門になっている)。 福 沢は『全集緒言』で緒方洪庵の翻訳について回想し、文事に大胆な洪庵が、送 られてきた訳稿を原書を見ずに添削していたエピソードを紹介しているが、そ の訳稿を送ったのが坪井信良であった。

古田杏輔と川北元立は、福沢が奥平壱岐から借りてひそかに写し、適塾で翻 訳した『百爾(ペル)築城書』に関連して名前が出る。 この原書と翻訳は、後 年、鉄砲洲の塾生で、伊勢藩士の兵学家米村鉄太郎が帰藩する時に、福沢が贈 り、そのままになっていた。 明治14年になって、それを思い出した福沢が、 ともに適塾生で津の医者だった古田杏輔(祐)と川北元立に頼んで、米村鉄太郎 を探してもらったのだという。(『福翁百余話』16「貧書生の苦界」に、この話 はある)

高橋順益という福沢の親友については、「等々力短信」1991.2.15.第557号「福 沢のワッフル」に書いた。 北里柴三郎については、<小人閑居日記>に 2003.11.18.「北里柴三郎の三恩人」、11.19.「報恩の人、北里柴三郎」、11.21. 「田端重晟(しげあき)日記」、11.22.「牛乳瓶事件」、12.1.「北里柴三郎とノ ーベル賞」、12.2.「北里柴三郎とベーリング」がある。 こうしてみると、短 信や日記に、いろいろ書きつけてきたものだと思う。