慶應日吉キャンパスの連合艦隊司令部2005/06/30 06:40

『蝶の舌』<等々力短信 第952号 2005.6.25.>を読んだ宮川幸雄 さんからメールを頂いた。 宮川さんは高校新聞のジャーミネーター の会で知り合い、福澤諭吉協会でもご一緒している。 「福澤諭吉先 生の自由主義思想は軍部では、共産主義と同じような危険思想ととら え、士官学校、兵学校の教科では福澤諭吉批判を展開していました」 とあり、「インターネット三田会」の“リレー・メッセージ”第69回 (2005.5.15)に宮川さんが書かれた「日吉台に軍靴の音が響いた頃」が 添付されていた。

http://www.inet-mitakai.com/message.html

戦争末期、慶應の日吉キャンパスの地下に、海軍の連合艦隊司令部があった ということは聞いていたが、くわしくは知らなかった。 宮川さんによると、 昭和19年9月29日、海軍は旗艦「大淀」から連合艦隊将旗を日吉台に移した。  海軍は既に主要な戦艦、航空母艦を失って、戦艦艦上で指揮する必要性が薄れ ていた。 海軍が選んだ建物は日吉台先端の通称「イタリヤ半島」にある当時 「東洋一の寄宿舎」といわれた日吉寄宿舎であった。 寄宿舎直下に地下壕が 掘りめぐらされ、空襲があれば司令部は地下に潜った。 この日吉台の連合艦 隊司令部から、レイテ沖決戦や戦艦大和の沖縄特攻の作戦計画と命令が出され た。 宮川さんは、日吉が東京と横須賀鎮守府の中間地点にあるなど海軍側に ここを選定したいくつかの利点があったが、慶應義塾にも大きな理由があった と思われるとして「当時の小泉信三塾長に廃学危機を回避しての、国策協力と 戦争遂行協力があった」「挙国一致体制を敷く軍人首班政権にとって自由主義の 慶應義塾は好ましい学校ではなかった。陸軍士官学校、海軍兵学校では教材に 福澤諭吉批判を取り入れていた」と推測している。 そして「昭和20年に入 ると背水の陣のように日吉台の地には、連合艦隊などの海軍全部隊を統括して 編成する海軍総隊司令部が置かれ、そして海軍省人事局、経理局、海軍航空本 部、海軍軍令部第三部がキャンパスの敷地を占めて軍靴の音が響いた。」

 現在、日吉寄宿舎は学生が使用しているので見学できないが、地下壕は慶應 義塾によって平成13年に整備工事がなされ、壕内を見学することが出来る、 という。