昇太の「ちりとてちん」2006/05/01 09:16

 昇太の「ちりとてちん」。 日本人は、努力して、汗かいて、くたくたなのが 好き。 だから長距離走が好き。 正月の箱根駅伝なんか、ブレーキになる奴 がかならずいて、監督が止めても言うことをきかない、コタツで酒を飲みなが ら見ていて、台所に向って「急いで、お母さん、そろそろ倒れるよー」。 松野 明美さんなんか、一万メートルのゴールで必ず倒れる。 1メーター6センチ ぐらいしかない、新巻ジャケみたいな、小さな身体で、苦しそうな顔で走って 来るのに、胸にニコニコ堂って書いてある、違和感がいい。 日本人は、一生 懸命やるのが好き。 高校野球が好き。 104対0なんて試合でも、やってい る。 バカじゃないか。 最後の攻撃に、ピンチヒッターが送られる。 レギ ュラーが打てないのに、補欠が打てるわけがないのに。 それにくらべて、落 語は楽そうに見えるらしい。(と、座布団の端をつかまえて、舟で揺れるような しぐさ) けして、楽してるわけではない、と。

 「ちりとてちん」は、なんでも喜んで褒め、日本という国に、灘の生一本、 鯛のお刺身、鰻の蒲焼、があるということは知っていたが、やったことはなか った男と、なんでもけなして憎まれ口をきく寅さんの対比。 褒める男は、灘 の生一本をやって、のどから胃の中に落ちるまでを、毎回なでてみせ、蒲焼を 死んだおっかさんにも食べさせたかった、と言う。 寅さんは、今めしを食っ たばかりだけれど、困ってんなら、人助けだと思って食ってやる。 灘の生一 本なんぞといっても、土地の水、土地の酒がうまい、とかいいながら、黙って ついで、黙って飲み、重ねてつぐ。 鯛のお刺身には「腐っても鯛、鰯が恋し い」、鰻の蒲焼も「海苔かと思った、どうせ養殖だろう」と言う。 仕返しにご 隠居が、鍋にふたをした先月のお豆腐の、赤、青、黄色に毛ばだったやつに、 七味を二本入れ、ブファファブファファファと咳き込みながら瓶に詰めたくだ んのものを出して、食べ方がわからないと訊く。 寅さんが、「懐かしいな、台 湾にいる時、三度三度やった」「赤ちりとてちんが一番好き」と、食してみせる。  その「何か乗り移っているんじゃないか」という昇太の派手なアクションには 笑ってしまった。 落語は、けして、楽してるわけではなかった。

小人閑居日記 2006年4月 INDEX2006/05/01 10:08

2896 建言書が福沢に与えた衝撃<小人閑居日記 2006.4.1.>

2899 落語を聴くための行列<小人閑居日記 2006.4.2.>

2901 花緑と「小さんのマクラ」<小人閑居日記 2006.4.3.>

2903  三語楼の「魂の入替」<小人閑居日記 2006.4.4.>

2905 市馬の「雛鍔」<小人閑居日記 2006.4.5.>

2907 小三治の「出来心」<小人閑居日記 2006.4.6.>

2909  「クマラジュウ」って誰<小人閑居日記 2006.4.7.>

2911 鳩摩羅什と玄奘三蔵<小人閑居日記 2006.4.8.>

2913 浅井忠展を見る<小人閑居日記 2006.4.9.>

2915 浅井忠の日本風景、版画と陶芸図案<小人閑居日記 2006.4.10.>

2917 猫額庭の春<小人閑居日記 2006.4.11.>

2919 木の芽時の句<小人閑居日記 2006.4.12.>

2921 浅田次郎さんの覚悟<小人閑居日記 2006.4.13.>

2923 幕末が身近になる「仕掛け」<小人閑居日記 2006.4.14.>

2925 幕臣の午後への前奏曲<小人閑居日記 2006.4.15.>

2927 十一代将軍家斉の姫君<小人閑居日記 2006.4.16.>

2929 三田界隈吟行<小人閑居日記 2006.4.17.>

2931 自然との共生を喜び合う<小人閑居日記 2006.4.18.>

2933 どう書くか分からない言葉<小人閑居日記 2006.4.19.>

2935 スポーツ中継語・時代小説語<小人閑居日記 2006.4.20.>

2937 日月火水木金土の七曜<小人閑居日記 2006.4.21.>

2939 「七曜」、暦注として弘法大師が輸入<小人閑居日記 2006.4.22.>

2941 江戸城城門撤去の時期<小人閑居日記 2006.4.23.>

2943 見附とは何かを見つけたり<小人閑居日記 2006.4.24.>

2945   「西を向く侍」「柘榴坂の仇討」<小人閑居日記 2006.4.25.>

短信  2946 『こぐこぐ自転車』<等々力短信 第962号 2006.4.25.>

2949   柘榴坂界隈の今昔<小人閑居日記 2006.4.26.>

2953 高校新聞仲間の死<小人閑居日記 2006.4.27.>

2955 鉄砲狭間・見附・渡り櫓<小人閑居日記 2006.4.28.>

2958   志ん太の「権助魚」<小人閑居日記 2006.4.29.>

2961 三三の「三方一両損」、歌丸の「ねずみ」<小人閑居日記 2006.4.30.>

志ん輔の「お若伊之助」2006/05/02 07:43

 ざっと思い出すと、「お若伊之助」を落語研究会でやったのは、円生と志ん朝 だから、古今亭志ん輔にとっては大変な大ネタだったのだろう。 帰りがけに 友人が、「ねずみ」といい、最近人情噺が多いようだという。 やり手に、大ネ タをやったという達成感があるのだろう、聴く方は、滑稽噺のほうがいいのに、 と答えた。

 志ん輔は、「超常現象」などという難しい言葉を使って、狐や狸のせいにした のは、みんなが落ち着く、安心するところがあったからだろう、とマクラを振 る。 石町(こくちょう)二丁目の生薬屋佐賀屋の娘、お若(18)は今小町といわ れる美人、一中節が習いたいというので、に組の頭、初五郎に頼むと、元は武 士の伊之助(24)を世話して来る。 母親が男の師匠に反対なのを、初五郎が伊 之助の人柄に太鼓判を押して、教えに来ることになる。 伊之助は色白、立ち 姿が良くて色気がある、声も芸もいいから、たまらない。 猫にかつぶし、噺 家に紙入れ、たちまち二人は恋仲になる。 女親は鋭い、初五郎に話をして、 伊之助には二十五両の手切れ金で二度と会わない約束をさせ、お若は根岸の里 は御行の松、剣術指南のおじさんの道場の寂しい離れに預ける。 昼はヤット ウの稽古で騒がしいのだが、終ると実に静かで、寂しくて退屈だ。 お若の恋 煩いは、粥でも、薬でも、治らない。 一年経った弥生の半ば、道場主はお若 の部屋に二人の影を見つけ、始めに伊之助の世話をした初五郎を呼びつける。  双方の主張と話のなりゆきで、初五郎が、根岸と伊之助の家のある浅草橋の間 を行ったり来たりする、そのおかしさがこの噺の聴かせ所だ。 そして種子島 の火縄銃と、大ダヌキが登場する。

 まだ、志ん輔を、円生、志ん朝とくらべるのは、気の毒かもしれない。

鉄砲が時代を動かす2006/05/03 07:43

 浅田次郎さんの『五郎治殿御始末』(中公文庫)の解説(磯田道史茨城大学助教 授・日本近世史)にもあり、NHKの大河ドラマ『功名が辻』の前振りでもやっ ていたことで、ぜひ書いておきたい、注目すべきことがあった。 この島国に ヨーロッパから伝来した「火縄銃」が、群雄割拠の、在地領主の時代を終らせ たという事実である。 火縄銃で攻めると、これまで落ちなかった難攻不落の 山城も、たちまち落ちる。 ふだんは農村に住んでいて、いざの時はそこから 出陣していた武士たちは、天下統一が進むと、「在地」から切り離され、兵農分 離で、城下町に集住させられ、「国替え」の一言で、どこへでも赴任させられる ようになった。 江戸時代になると、武士は在地から離れ、城下町に住み、毎 日主君に仕える。 城下町から勝手に出ることも禁じられ、生まれてから一度 も自分の領地を見たことのないなどという武士の時代になる。 領地に行かず とも、藩主に忠実に奉公してさえいれば、年貢米は自然と自分の屋敷に運ばれ てくる。

 このような武士の世を終らせたのは、またしても、鉄砲だった、と磯田道史 助教授はいう。 ライフル銃と榴弾砲の登場によって、刀や槍・騎馬武者は何 の役にも立たなくなった。 火縄銃だと、百メートル離れれば、かなり安全で 一分に数発しか打てなかったのに、ライフル銃は五百メートル先の人馬をなぎ 倒し、榴弾砲は四千メートルも飛ぶからだった。 (榴弾を『広辞苑』でみると 「弾体内に炸薬(さくやく)を詰め、到着点で炸裂する装置の砲弾」)

 当然のことながら、飛行機や、ミサイルの登場が、戦争を大きく変化させた ことを、思わずにいられなかった。

アームストロング砲とライフル銃2006/05/04 07:40

 榴弾砲という言葉は知らなかったが、アームストロング砲というのは聞いた ことがあった。 似たような趣旨をアームストロング砲で、前に書いたことが あったような気がした。 短信だけなら、少しは推敲もするので、だいたい憶 えているのだが、<小人閑居日記>は毎日書いているから、そうはいかない。  「砲」で検索すると、「鉄砲洲」などにまじって、ずばり「新旧武器の威力の差 <小人閑居日記 2003.4.28.>」というのが出てきた。 連休の手抜き、そっ くり引いておく。

 新旧武器の威力の差<小人閑居日記 2003.4.28.>

 4月18日に生麦事件について書いて以来、吉村昭さんの大冊『生麦事件』 (新潮社)を読んでいた。 5年ほど前の出版時に買ったが、積んどく本にし ていた。 最大の収穫は、新旧武器の威力の差の問題だった。

 この本は生麦事件の発生から、薩長連合による倒幕までを描いている。 薩 摩藩は文久3(1863)年7月2日、生麦事件の下手人の処刑と、死傷者に 対する賠償金を要求して、鹿児島に来航したイギリス艦隊と戦争になった(薩 英戦争)。 それまでに赤間関(下関)を通過する外国艦船を砲撃してきた長州 藩は、翌元治元(1864)年8月5日、英仏蘭米4か国連合艦隊の来襲を受 けた(下関戦争)。 この二つの戦争による実地体験で、薩長両藩は、新旧武器 の威力の差を知った。 外国軍のアームストロング砲など施条式後装鋳鉄砲が 先端の尖った鉄製の砲弾(椎の実弾)で射程距離3.6キロと長いのに対し、 台場の青銅砲からの砲弾は球型で正確に目標に飛ばす飛距離も短く(1キロ弱)、 威力も明らかに椎の実弾より劣っていた。 鉄砲も新式のライフル(施条)銃 と火縄銃では連射のスピードも威力も大きな差があった。 陸戦も経験した長 州は、西洋の陣法の優秀なことも知った。

 この教訓に学んだ薩長両藩は、ただちに近代装備の購入に努め、たまたま南 北戦争が終わって余剰の出ていた武器を大量に輸入することができた。 それ が戊辰戦争で、数の上では圧倒的に優勢な幕府軍に大勝できた要因になったの である。