W・K・バルトンの学歴と職歴2006/05/18 06:39

 来日前のW・K・バルトンの学歴と職歴を、藤田賢二東大名誉教授の基調講 演「わが国衛生工学の始祖バルトン」と、稲場紀久雄教授の講演から、まとめ ておく。 エジンバラ・カレジエイト・スクール(藤田教授はインスティテュー ト)を卒業したバルトンは、1873年(17歳)ブラウン・ブラザーズ商会にアプレ ンティス (徒弟・見習い)として入社した。 (裕福で教養のある家庭に育った バルトンがそうした道に進んだのは、当時「工学」を身につけるためには、そ のようにしていたからのようだ。) その2年前に創業したブラウン・ブラザー ズは(土木機械などを扱い)、後に船舶機械の世界的メーカーに発展する。 創 業者アンドリュー・ベッツ・ブラウンは、希代の発明家で、優秀な船舶用スタ ビライザー(安定装置)を発明し、同社の基礎を築いた。 バルトンは、1878年 (22歳)ローズバンク鉄工所の機械技師、主任技師となる。

 稲場教授は、バルトンが生涯の仕事を何にすべきか悩んでいた、という。 産 業革命には、光と影の両面があった。 機械工学は光のあたる分野だったが、 社会的に切望されていたのは衛生工学だった。 これより前、父親のジョン・ ヒル(1809-1881)は、30歳代初め、親友エドウィン・チャドウィック(イギリス で「公衆衛生の父」と呼ばれている)と環境衛生の重要性と関係制度の創設を訴 える社会活動を展開した。 チャドウィックは、1842年、『大英帝国における 労働人口の衛生環境に関する報告書』で産業革命の影の部分、多くの若者が20 代で犠牲となって死んでいる事実を指摘し、これが1848年の『公衆衛生法』 の成立に結びついた。 これにはジョン・ヒルの側面からの支援があった。  1858年は、イギリスでは「大悪臭年」と呼ばれる記念すべき年(余談だが、日 本では慶應義塾誕生の年)で、水洗便所がどんどん普及し、みんなテムズ河に流 れ込むのに、雨が少なくて暑い夏で、ロンドン中が悪臭に包まれた。 ところ が地方分権の力、教区の力が強くて、下水道(上水道も)が作れない。 それを 強力な保守党政治家ディズレーリが公の力でやるべきと主張し、法律ができた 衛生行政革命の年だった。 衛生工学に進んだバルトンの生涯には、父ジョン・ ヒルの強い影響を認めることができる、と稲場教授は言う。

徒弟修業を7年間務めた1880年、悩める青年バルトン(24歳)の前に、土木 技術者の叔父(母の末弟)コスモ・イネスがインドから帰国、バルトンの生涯を 大きく変える。 この年、バルトンはキングス・カレッジ・ロンドン(ケンブリ ッジのキングス・カレッジではない)の化学分析の1ヶ月コースに在籍した。  土木は大都市住民の健康を守ると、二人は共同経営で『イネス・バートン・コ ンサルティング・エンジニアーズ』を設立、82年には今日のNPOのようなも のか『ロンドン・サニタリー・プロテクション・アソシエーション(衛生保護協 会)』が併設される。 会社と協会の業務は表裏をなし、環境衛生に関するあら ゆる技術的相談が持ち込まれたことだろう。 叔父が病気がちだったので、バ ルトンにとって実務を通して、真剣勝負の7年間だったろう、と稲場教授は語った。 バルトン来日の87年(31歳)、会社はコスモ・イネスの個人名となる。