幕末・明治、芸者の隆盛2006/05/30 07:11

 なぜ美人コンテストに「芸者」なのか。 「明治美人帖」「ゲイシャ・不思議 の国の美女」の佐伯順子教授の話のつづき。 当時のニュー・メディア「写真」 の影響だった。 まだ、一般に女性が不特定多数の前に顔をさらすのは、はし たないと思われていた。 芸者は人気商売、顔を売る営業戦略に「写真」を使 う。 写真の発達=芸者の隆盛。 ブロマイドが登場し、写真印刷の普及もそ れに拍車をかけた。 山形から東京に出てきた中学生の斉藤茂吉は、浅草で新 橋の芸者ぽん太のブロマイドを買い、心を奪われた。 ひと目惚れ、茂吉の初 恋だった。

 幕末の激動とともに芸者の隆盛が始まる。 京都に集った勤皇の志士たちは、 藩や身分を超えて毎晩のように会合を重ね、芸妓(関東で芸者、関西で芸妓(げ いこ))が間を取り持った。 個人的に志士を支えた勤皇芸妓もいた。 桂小五 郎・江良加代(祇園一の美人)、伊藤博文・妻梅子(下関の芸者)。 維新後も、料 亭政治が盛ん。 陸奥宗光・亮子(新橋の小鈴)、桂太郎・お鯉(新橋)。

明治になって、芸者は全盛時代を迎える。 京都祇園1,000人、博多500人、 大阪にも多数の花街があり、東京は前からの深川、向島に加え、官庁街に近い 新橋と柳橋が発達した。 新・柳二橋(しんりゅうにきょう)に芸者1,000人と いわれた。  日本女性は奥床しいのが美徳とされる中で、芸者は接客業だから、人と接す るのがうまく、外国要人と接するような場合でも、気後れするところがなかっ た。 明治の芸者は「別格」といわれた。 社会の流動の中で、没落士族の娘 が、芸者になった例も多かった。 しつけが身についていた。 美人というだ けでなく、苦労もしていて、内面的なものもあり、弱い人へのいたわりの気持 を持つ、心の美しさもあった。 芸者は、そうした憧れの対象である一方、同 時に批判と蔑視の対象でもあった。 佐伯順子さんは、芸者がその両極端の視 線を身に受ける緊張感を感じながら、日本の近代化に貢献していく重要な存在 だった、と語った。