毛、周の「二分論」で国交回復2006/08/21 07:42

 8月14日の「NHKスペシャル」は、「日中は歴史にどう向き合えばいいのか」 だった。 1952年、日本は台湾の国民政府との間で、日華平和条約を結んだ(す でに中華人民共和国は1949年に成立していた)。 そこには日本をアジアにお ける反共の砦と位置づけるアメリカの強い意向があった。 蒋介石は、国民政 府こそが中国を代表する政府であると世界に認めさせるため、この条約を結ん だ。 アメリカの意向に従い、日本の戦争責任を問わず、賠償も放棄した。  当然、中華人民共和国(以下、中国と書く)は激しく反発した。 しかし1950 ~53年の朝鮮戦争後、55年ごろの早い段階から、中国は日本との国交正常化 の意志を持っていた。 日本をアメリカから切り離すために…。 毛沢東と周 恩来は「二分論」つまりごく少数の軍国主義者と多くの日本国民を区別する考 え方をとり、戦争責任は少数の軍国主義者だけにあるとした。 56年には戦犯 を釈放。 周恩来は対日工作グループをつくって、日本政府が中国に積極的な 態度が取れるようにうながし、民間交流も進めた。 戦争賠償の放棄も決めて いた、という。

 1971年、突然のキッシンジャー訪中で、米中が急接近した。 ソ連の脅威が 背景にあったが、台湾を重視していた日本には思いもよらない事態だった。  1972年7月、日中国交正常化を公約した田中角栄内閣が成立。 外務省はサン フランシスコ体制がひっくりかえるような日華平和条約の廃棄はできないとい う立場だったが、9月25日から四泊五日の田中首相、大平外相の北京訪問と首 脳会談で政治決着をはかり、「日本側は過去の戦争によってもたらされた苦しみ と損害に対する責任を痛感し、深く反省」した日中共同声明に調印した。 日 本側は「軍国主義者」という文言は入れさせなかった。 中国は賠償放棄を宣 言、日本は中華人民共和国を正統政府と認めて、国交を回復した。 大平外相 は調印後の記者会見で、日華平和条約は終了したと宣言した。

 「二分論」の毛沢東、周恩来がいたから調印できた。 一般民衆には反対も 多く、全国で大規模な説得教育が始まる。 そこで説明されたのは「二分論」 だった。