谷中の朝倉彫塑館で2006/11/05 07:18

 2日の木曜日、夏に白金の「千年茶館」に行ったゼミの仲間と、谷中根津の 散策に出かけた。 その一人KT君が千駄木在住で、地元を案内してくれたの だ。 日暮里駅の西日暮里寄りの改札口で集合。 KT君は江戸時代からある 道を歩くというプランを立て、現在の周辺案内地図と幕末の地図をカラーコピ ーで用意してくれていた。 古地図にもある月見寺・本行寺と経王寺で、門扉 に残る彰義隊の戦の弾痕を見た後、朝倉彫塑館へ行く。

 前に一度来たことがあったが、ゆっくりと見て歩くと、新しい発見がいくつ もあるのだった。 たとえば「平和来」の像。 三田の山に、小泉信三さんの 碑文で「丘の上の平和なる日々に 征きて還らぬ人々を思ふ」と刻まれたあの 像が、ここにあった。 朝倉文夫作だったわけだ。 清潔で純情な青年の表情 に打たれる。 今時の若者にはない顔だ。 こんな青年が、戦に出て行ったの だ。 三田ではじっくりと眺めたことのなかったことに、あらためて気づく。  現代の女子学生が、太平洋戦争に行く青年に恋してしまう、短編小説でも生ま れそうな顔をしている。 「平和来」の視線の先に、早稲田大学の構内にそそ り立っている「大隈重信像」もあって、アトリエは早慶戦の様相を呈している のだった。

 屋上庭園にも、初めて登った。 途中に朝倉文夫が蘭を趣味にしていた煉瓦 とタイルのサンルームがあった。 屋上からの眺めは、ごみごみした町中に高 層ビルがニョキニョキ生える、昔からずっと都市計画のない、不揃い東京の絶 望的風景であった。

三崎坂から「へび道」へ2006/11/05 18:38

 朝倉彫塑館前の道を上野方向へ進む。 江戸の地図だと、その左手は大きな 天王寺の寺域で、道に沿って、天王寺古門前町、天王寺中門前町と続く。 途 中、観音寺のところで、ちょっと右に入り、江戸時代からの古い練塀が残って いるのを見る。 また元の道に戻って、まっすぐに三崎(さんさき)坂まで行 き、右に曲がって、千駄木の駅の方向に進む。 右手に全生庵、三遊亭圓朝居 士のお墓がある。 馬場がいてはと、寄ってくれた。 隣に「圓生累代の墓」、 傍らに「ぽん太之墓」という小さな墓石がある。 「ぽん太」は、残念ながら 圓朝の馴染の芸者ではなく、三遊亭ぽん太、愛弟子だという話を、初期の<小 人閑居日記>2001.12.14.に書いたことがあった。

 景観に配慮したらしい変な建物の谷中小学校の前に、KT君がこんな不思議 な建物は見たことがないという大円寺がある。 永井荷風撰文の笠森お仙の碑 と、錦絵の鈴木春信の碑がある。 問題の建物は、二つの本殿が一つの建物に 並んで納まっている。 森まゆみさんの『谷中スケッチブック』を見たら、右 が薬王殿で瘡守(かさもり)稲荷のお社、左が経王殿でお祖師様をまつってあ るのだそうだ。

 三崎(さんさき)坂が終わって、団子坂が始まる所、菊見煎餅の手前を左折、 「へび道」に入る。 今は暗渠になっているが、昔は不忍池に流れ込む藍染川 で、今は台東区と文京区の区境になっている。 途中で、根津神社へ寄るため 右折したが、古地図で藍染川の右手一帯は大きな池のある豊前小倉藩十五万石 小笠原左京大夫の屋敷になっている。