露伴と小林勇の出会い ― 2006/11/24 07:56
青木玉さんは、1929年のお生れだそうだから、76歳か77歳になる。 立っ たままで1時間以上話をした。 祖父幸田露伴(1867-1947)と小林勇(1903- 1981)の話である。 母・文の離婚で、露伴の小石川の家に連れられて帰った のは10歳の時だったという。 その前に露伴は初の文化勲章を受章していた。 露伴の死まで10年、しばしば通ってくる小林勇を見、祖父の死後も一家の面 倒をみた小林勇を見た(小林勇に『蝸牛庵訪問記―露伴先生の晩年』がある)。 露伴の気難しいのは有名だが、そこにやって来る人々も気難しかった。
小林勇が最初に露伴の所に来たのは、露伴が息子を亡くしてまだ初七日もす まない内だった。 露伴は小林の顔を見て、自分の息子と正反対のものを持っ ている人と感じ、小林は子供を失った露伴を自分の両親と重ねたところから、 素直な感情の良さが出て、ふたりの関係が出来たのだろう、と言う。 露伴は 人の気持の濃やかさを喜ぶ人だった。 露伴は付き合いにくいけれど、興味深 い学識があった(17歳で岩波書店の住み込み店員となった小林に学歴はなかっ た)。 それを吸収しようとする強さ、素っ気無くされても、またやって来たい という強い意志が、小林にはあった。 斉藤茂吉や大河内正敏、中谷宇吉郎を 露伴のもとに連れてきたのも、小林勇だった。
小林勇は困難にわざわざ遭うような強いものを持っていた。 自分の持って いるものをひけらかしはしないけれど、人の弱っているのをかばいたいという ところがあった。 それは両親から受け継いだものだろう。 岩波茂雄の次女 をもらい、岩波をおん出て「鉄塔書院」をつくったのは(10月9日の日記参照)、 「いつか成すあらん」と思うから出来たのだろう。 「鉄塔書院」と名付けた のは露伴で、幸田の家と「塔」の縁は深い。 露伴は、高くきりりとしたもの が好きで、電気を伝える鉄塔の「明かりとなるものになれかし」という自分の 気持の中にある感懐を、名として贈ったのだろう、と玉さんはいう。
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