花緑の「夢金」と大川 ― 2007/01/01 08:14
花緑は2006年、モーツァルト生誕250年祭のコンサートで、モーツァルト に扮して(ウンチじゃなくて、と言った)ピアノを弾いたという。 あの宮廷カ ツラをかぶったが、ショーユ顔なので、どう見ても「おばあさん」、「サザエさ んの晩年」みたいになった。 東京フィルをバックに1分か1分半弾くのだけ れど、プロの間で弾くのは「いじめ」だ。 落語会の余興に弾くのとは違って、 上がるし、間違える。 天才的な言い訳を思いついた。 「すみません、250 年ぶりに弾いたものですから」。 次の時は、それが言いたくて、わざと間違え た。
「夢金」、プログラムの田中優子さんの解説は「屋根船」の説明、数人の船頭 が操る「屋形船」より小さい。 浪人者らしい二十七、八の侍が、十六、七の 上品でおっとりした顔の妹を連れて芝居見物のあと、雪に降られて難渋し、大 桟橋まで「屋根船を一つ」と、船宿にやって来る。 解説に、幕末の猿若町が 中村座、市村座、河原崎座の江戸三座の並んだ一大繁華街の芝居町で、これは 芝居町が猿若町に移った後の咄だろう、とある。 芝居小屋三座(中村座、市 村座、守田(森田)座という本もある)は天保の改革で、都心部から浅草の猿 若町に移された。 ただ田中優子さんは「猿若町から歩いて花川戸を抜けると 吾妻橋だ。この船宿はそのあたりだったかも知れない」と書いているが、花緑 は「山谷堀から大川へ出る」山谷堀の船宿で演った。 山谷堀の河口あたりに は船宿が沢山あったらしい。 「堀の芸者」がいる花街があり、料亭八百善も あった。 「あくび指南」で「堀に上がって一杯やって、吉原(なか)へでも 行って、粋な遊びの一つでもしてこようか」という「堀」である。
浪人者を置き去りにする中洲は、清洲橋際の日本橋側の地続きになっている 辺り(佐藤光房『続 東京落語地図』)だそうだが、佐藤春夫の『美しい(き) 町』の舞台になる中洲だろう(「小人閑居日記」2002.9.13.-15.-16.)。
では「大桟橋」はどこか、とやっていたら、きりがない。 大川は落語の舞 台として、ちょくちょく登場するのだ。
新小さんの「真二つ」 ― 2007/01/02 08:41
えーっ、そこで三語楼改め六代目柳家小さんの山田洋次作「真二つ」だが、 もともと落語研究会の名物プロデューサーだった白井良幹(よしもと)さんが 先代の小さんにあてて山田洋次さんに書いてもらった作品だ。 先代が演った のを、聴いたことがあるが、たいして面白いとは思わなかった。 その白井さ んが生前、三語楼に「そろそろ勝負しなきゃあ」と言ってやらせたこのネタで、 三語楼は芸術祭の大賞を取ったという。 その自信が今回の小さん襲名につな がったとすれば、新小さんにとってきわめて大事な噺ということになる。
袴で出て来て、私が六代目柳家小さんでございます。 六代目といわなきゃ ならないところが、なさけない。 氏神様に襲名成功祈願のお参りをした。 占 いは嫌いだけれど、何年か前、手相を見てもらったことがある。 「大器晩成 型」と、言われた。 名人上手といわれるのには時間がかかる、遅くなって開 花する。 手相は馬鹿にできないね。 呼び止められて、もう一つ、「早死にだ」 と言われた。 そんな今度の小さんでございます、と噺に入る。 「ちきり伊 勢屋」を踏み、自分を笑っている。 見事なユーモアというべきだろう。
「真二つ」なかなか、よかった。 演り込んであるからなのか、こちらが年 取ったからなのか、先代のより、よいような気がした。 おとぼけだけでなく、 ストーリーテラーとしても、期待できると思った。
「俳」という字 ― 2007/01/03 08:34
川崎展宏さん(79)が朝日俳壇の選者を引退するという記事が、12月13日 の朝刊に出ていた。 今後の朝日俳壇にどんな作品を期待するかを聞かれて、 「先人の秀句がひしめく中で、自分らしさを出すのは簡単でない。真の初心の みが新しい何かを生み出せるのでしょう。俳ですから、常識を破った、思わず 笑いが生まれる、そんな作品を一読者として待っています」。 俳句の「俳」を、そんなふうに考えたことはなかった。 俳諧に、滑稽味が 含まれるのは知っていたが…。
それでまず、『広辞苑』の「俳」を見る。 (1)芸をする人。わざおぎ。「俳 優」(2)おどけ。たわむれ。「俳諧・俳謔」(3)俳諧・俳句の略。「俳人・俳画・ 雑俳(ざっぱい)」 そうか、「俳」は「おどけ、たわむれ」なのか。 白川静『字通』で「俳」を見る。 「もと二人相戯れて演技する意であろう」 「侏儒などがその役を演じた」「(1)たわむれる、おどけ。(2)わざおぎ。(3) うたう、うそぶく。」
俳句をつくると、つい川柳もどきになるのは、落語好きの因果だろうか。 去 年の作にも、つぎのようなのがある。
球春やボブ・デービットソン大明神
その胸に胸を衝かれる更衣
ほととぎす鳴くか有明テニス場
平成の便座も温(ぬく)き果報かな
しぐるるや国のへそなる永田町
「俳」が「おどけ、たわむれ」なら、この傾向を、それほど反省卑下する必 要はないのかもしれぬ。 と、新年早々、我田引水の弁。
「平成落首考」から ― 2007/01/04 08:04
友人からの年賀状に、「五行歌」というのがあった。
一言いうと
三言返ってくる
もう
亭主関白も
定年かぁ~
こちらは正真正銘の川柳だが、西木空人さんが暮の29日の朝日新聞朝刊に 2006年後半の投稿から目ぼしいものを選んで「平成落首考」というのを書いて いた。 中から面白い、なるほどと思ったのを拾い出しておく。
うしろから美しい国読んでみる (「憎いし苦痛」ね)
秋深し隣は何でもする国ぞ
劇場で斬られた人は生き返る (小泉劇場)
太陽族の老いても荒い金遣い
親馬鹿の度合いも余人に代えがたし
銀座煉瓦街の設計者 ― 2007/01/05 07:03
暮にW・K・バルトンのことを「等々力短信」に書いたら、さっそく銀座の 煉瓦街もバルトンだろうか、というメールを頂いた。 調べてみると、バルト ンではなかった。 銀座は明治5年2月に一帯が火事で焼失した。 明治政府は木造での再建を 禁止し、明治6年「煉瓦石建築の決議」が提出された。 明治10年、煉瓦造 り2階建長屋、幅15間(27メートル)の道路も煉瓦舗装という銀座煉瓦街が 完成した。 設計者はイギリス人トーマス・ジェームス・ウォートルス。 イ ギリス人としか分からないが、明治の工学関係のお雇い外国人はスコットラン ド出身者が多いから、この人もあるいはそうかもしれない。
銀座8丁目8番地金春通り(昔、能の金春屋敷があった)、博品館の裏あた りに「煉瓦遺構の碑」があるそうだ。 丸の内にも煉瓦街があり、煉瓦街は延 べ1万坪、その建設に国家予算の4%弱が充てられた。 東京の繁栄の象徴、 文明開化の情報発信基地となった。
バルトンは水道関係の専門家なので、給水塔の設計などはあったようだ。 浅 草十二階「凌雲閣」は、給水塔に似ていなくもない。 W・K・バルトンが来 日したのは、明治20(1887)年、亡くなったのは明治32(1899)年だったか ら、彼の活躍した時代は煉瓦街の頃より少し遅くなる。
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