戦時下の慶應、小泉信三塾長2007/07/11 06:30

 白井厚さんの話で、一番印象に残ったのは、小泉信三さんに関することであ る。 小泉信三さんは、1926年に塾長に就任した。 その前年に治安維持法が 制定され、現役将校学校配属令が公布された時代である。 1925年、マルクス 研究も深かった小泉さんは、教室で野呂栄太郎とマルクス価値論論争をやって いる。 1926年、野呂栄太郎は軍事教練反対運動(学連(社会科学連盟)事件) で検挙される。 慶應義塾は福沢以来の自由な校風の伝統があり、洋学特に英 米系の経済学を中心に、国際性を持ち、実学を旨としていた。 戦時下の慶應 は、最も自由な大学の一つで、学内では配属将校や特高警察がいても比較的自 由だった。 高橋誠一郎、板倉卓造など自由主義的教授の講義を聴くことがで きた。 それでも、特高は学内にうようよいて、教室に入って学生のノートを 調べたり、左翼系の組織図を正確に把握していた。 学生は徴兵猶予の特典が あるのに、同年配の人は戦地にいるから、ぶらぶら遊んでいると「学生狩り」 にあった。 銀座でビリヤードをしたり、喫茶店にいて、捕まった。 警察の 道場で、大演説を聞かされ、痛めつけられた。

 白井ゼミの共同研究で、当時学生だった先輩1,700名がアンケートに答えて くれた。 それで明らかになったのは、小泉塾長の存在が大きく、他大学の総 長などに比べると、その影響力が非常に強かったことだ。 小泉塾長に対する 尊敬は強く、言われるままに戦った、塾長の膝下で戦った、という意見が多か った。 白井さんはこれを、小泉さんがやや神格化されていて、戦後小泉さん 自身が自己批判した史実を忘れているのではないか、という。 小泉さんは塾 長告示で「学ばざるがために破れ、戦うべからざるに戦いました」といい、戦 争は「あまりにもひどい悪夢だった」と、いっているそうだ。

 戦時下、一番酷い扱いを受けたのがミッションスクールで、立教大学の文学 部は潰され、その学生を慶應と上智で引き取った。 慶應義塾も潰される恐れ があった。 小泉塾長の戦争協力には、慶應を潰されないためにという、非常 につらいところがあったのではないか、と白井さんは示唆した。