『言論の自由の死』の碑2007/10/22 07:37

 城山三郎さんは長男で、下はずっと女だったから、予科練に志願したり兵学 校を受けることには、両親が反対だった。 それが、お父さんが徴兵されてし まったので、これ幸いと徴兵猶予を取り消して、17歳で海軍の「特別幹部練習 生」を志願した。 お母さんは笑顔で送ってくれたけれど、実際は一晩中泣い ていた、という。 戦後、あれは「志願」ではなかった、言論の自由のない当 時の社会や国が「強制」したのだ、と気づく。 「志願」と思わせられた自ら の未熟さを恥じ、「志願」と思わせた指導者たちへの告発として、軍国少年の戦 後を長編『大義の末』に書いた、という。

 その体験から、2001年に個人情報保護法案が提出されたとき、反対に立ち上 がり、『言論の自由の死』の碑を建てて、その法案に賛成した議員全員の名前を 刻む、と言った。 しかし、新法案は可決されてしまった。

 城山三郎さんは、人間魚雷「伏龍」特攻で十代で死ぬはずだったことを述べ たあとで、「とにかく、戦争になると、何が起こるか、わからない。いや、とん でもないことが起る。それが戦争というもの。それだけは、どうぞ忘れないで と祈るばかりである」と、書いている。

お孫さんには「戦争をしても失うものばかりで、得るものなど何もない。戦 争で日本が唯一得た平和憲法を、絶対に守っていかなければならない」と、言 っていたそうだ。