扇遊の「蜘蛛駕籠」を楽しむ2007/11/01 07:41

 志の吉、我太楼、歌丸と芳しくなかった落語研究会だったが、仲入後の入船 亭扇遊「蜘蛛駕籠」で救われた。 鈴ヶ森で駕籠屋が客待ちをしている。 通 る人に「へい、駕籠」と呼びかけて、なんとか乗せようとする。 兄貴分が雪 隠に行っている間に、まだ二、三日目の新米が、前の茶店のオヤジを乗せてし まうところが、可笑しい。 紺の前掛をし、箒とちりとりを持っていたのに…。 

川崎大師に行った帰りの、酔っ払いを勧誘して、えらいことになる。 六郷 の渡しのところで、「あーら、熊さん」と声をかけられたのが、辰公のかみさん のおテツさんで、すっかりゴチになった、辰公とおテツさんの祝言は…という リフレインが、これまた可笑しい。 駕籠屋も憶えてしまうが、聴いているわ れわれも、憶えてしまう。 なんでもない噺をやって、可笑しく聴かせる。 こ れが芸だろう。 入船亭扇橋の弟子はみんないいが、この日の扇遊はとてもよ かった。 先代の文楽が次第に乗ってきて、顔も紅潮して、現出する楽しい世 界を思い出した。 拍手、拍手。

さん喬の「真田小僧」2007/11/02 08:01

 ようやくトリの、さん喬「真田小僧」まで来た。 こどもの金坊がお父っつ あんをだまして、小遣いをせしめる噺だ。 お父っつあんがお仕事で横浜へ行 った日、おっ母さんのところへ、「こんにちは」と男の人が訪ねてきた。 黒い 眼鏡に、きざったらしい白い服、ステッキをついていた、というところで1銭。  おっ母さんが、その男の人の手を取って、お上がりなさいと、引っ張り上げた。  上がってからを聞きたければ、2銭。 ここで、表に遊びに行けと、おっ母さ んが5銭くれた。 町内を一回りして帰ると、障子がぴたりと閉まっていた。  障子の向こうが見たければ、3銭。 障子に穴を開けて覗いたら、布団が敷い てあった。 座布団か? 寝具。 3銭はここまで、5銭もらいたい。 男の 人がおっ母さんの足のところをさすって、おっ母さんは、気持いい、気持いい って、いっていた。 その男の人は、お父っつあんのよく知っている人だよ。  横丁のあんまさん、どうもありがとう。

 父親は、かみさんに寄席の講釈で憶えた真田三代記の話をする。 真田昌幸 が数千で数万の軍勢に囲まれた時、13歳の次男与三郎(のちの真田幸村)が、 敵の一方、松田尾張守の六連銭の旗印を使って、大道寺駿河守勢に夜討をかけ、 敵の同士討ちをさそい、無事上田に逃げ帰ることが出来た。 真田はこれを記 念して、のちに永楽通宝の六連銭を自らの家紋にしたという故事だ。 講釈で は、真田幸村は、大坂夏の陣で討死と見せかけて、薩摩に逃れたとする。 こ れを小耳にはさんだ金坊が、流暢に復唱し、六連銭の並べ方を父親に尋ねる。  結果は、ご想像の通り。 「どこへ行くんだ」「今度は芋を買うんだ」「うちの 真田も薩摩に落ちたか」

 一歩間違うと、嫌味になる噺だが、さん喬の金坊は、嫌味にならずに、十分 に楽しむことができた。 人柄が出たのだろうし、無理に「子供」だというの を強調せず、淡々と話したのもよかったのだろう。

富岡製糸場の見学2007/11/03 07:41

富岡製糸場

 10月27日(土)福沢諭吉協会の第42回史蹟見学会、信州佐久旅行の初日、 運悪く台風が突然現れて、バスの駐車場から最初の見学場所・富岡製糸場へ行 く道は、土砂降りになった。 それでも世界遺産暫定リスト国内決定という影 響か、たくさんの見学者がいて、説明するボランティアについて、場内を巡っ ていた。 われわれも律儀そうな案内の方の解説を聞く。 明治5年から26 年までの官営のあと、三井製糸が明治35年まで、それから昭和14年まで原製 糸、昭和63年の操業停止を経て、平成17年までを片倉工業が経営していた。  片倉工業の社長は同期、友達の友達なので「等々力短信」の送り先なのだが、 片倉工業が富岡製糸場を持っていた時期があるのを、恥かしながら全く知らな かった。

 幕末の開港とともに、重要な輸出品となった生糸の、製造近代化の「模範工 場」「実習工場」として計画された富岡製糸場、首長ポール・ブリューナーを始 めとする十数名のフランス人を高給で雇い入れて、準備に着手した。 この地 方の瓦職人が見たこともない煉瓦を焼き、フランス人バスチャンの設計図にし たがって日本の大工が建てたという木造レンガ造の建物は、よく見るといかに も趣がある。 工場は採光部を広くとり、ガラスも窓枠も、フランスから持っ て来たという。 当初、昼間だけの操業、日曜日は休みだったとか、工女のた めの診療所や病院もあった。 機械化された製糸工程のビデオを見たが、煮た 繭から最初の糸の先端を箒みたいなものでひっかけて、引っ張り出すところが 面白かった。

「神津牧場」と創設者の理念2007/11/04 07:29

雨の神津牧場

 「神津牧場」は、意外と人里離れた、山深い、奥にあった。 上信国境物見 山(標高1,375m)の山頂から東側の斜面400ha弱を切り拓いてあるので、開 発はもちろん、日常の作業も、さぞ大変だろうと思われた。 あとで伺えば、 傾斜地の放牧で牛がよく運動し、本来の食べ物である牧草を食むので、良質の 牛乳や牛肉になるという。 明治時代に始まる「洋式」の牧場で現在も存続し ているのは、日本最初・明治20(1887)年の創設の「神津牧場」と「小岩井 農場」の二つだけだそうだ。 大資本の「小岩井」にくらべ「神津牧場」は1/10 の規模だが、明治38年からは全身茶色のジャージー種の牛に限定し、上記の 家畜本来の機能を生かした飼い方をする理念で一貫してきたについては、ちょ うど適正な規模だという。   「神津牧場」の牛乳は高蛋白、高脂肪で、カロテンも多く含み、少し黄色み がある。 この牛乳から作られる「ゴールデンバター」は栄養価が高く、明治 期からの人気商品で、福沢諭吉が愛用したことで知られている(2月9日の日 記参照)。 29日にちょっとふれたように、創設者は明治14年に慶應義塾に入 った神津邦太郎(1866~1930)で、経営が神津家の手を離れ、田中銀之助、さ らに明治製菓を経て、現在の財団法人「神津牧場」と移っても、邦太郎の理念 は、ずっと受け継がれてきているのだそうだ。

 残念ながら、雨のために、肝心のジャージー種の牛の姿は、二頭が牧場の中 の小さな屋根の下に雨宿りしているのしか、見られなかった。 ちょうど時間 になり、牧場産の赤みの牛肉を、「ゴールデンバター」で鉄板焼きするのが自慢 のロッジ(一泊6,000円の由)で、ビーフ・カレーライスの昼食になる。 ソ フトクリームとコーヒーをご馳走になった。

神津家「中の新宅」で福沢資料を拝見2007/11/05 07:34

資料を拝見する服部禮次郎理事長ら一行

 この旅行では、神津家の皆様から格別のご配慮をいただいた。 『福澤諭吉 から神津一族にあてた書翰集 改訂版』という冊子(参加者は皆、頂戴した)を おつくりになった神津克己さんと、神津卓雄さんは、旅行に同行して、いろい ろとお世話くださった。 「神津牧場」の次は「中(なか)の新宅」にお邪魔し て、そこに保存されている福沢書簡その他の資料を拝見した。 「中の新宅」 は、神津邦太郎の父、神津九郎兵衛吉助(のちに勝久と名乗った)が明治5年 頃から、一族繁栄のため次々と分家を創立させたとき、一番上手の神津豊助の 分家宅「上(かみ)の新宅」と本家宅の間に建築、分家した神津国助宅を「中の 新宅」と称したものだそうで、現在は国助の曾孫、神津秀章・喜久江ご夫妻が 住んでおられる。

 福沢書簡はもとより、福沢の写真や献呈の書き込みのある『福翁百話』初版 本(明治30年)、福沢晩年に「修身要領」(明治33年)宣伝に赴いた一行の歓 待に対する鎌田栄吉の礼状、福沢の葬儀の案内状、慶應義塾へ多額の寄付をし ている文書など、神津家と福沢や慶應義塾の深いつながりをしめす資料が、そ のままの形で沢山保存されていて、興味は尽きなかった。

 北軽井沢、嬬恋村のリゾートホテル「軽井沢1130(イレブンサーティ)」に泊 まる。 1130は標高だそうで、別荘地の中によくこんなものが許可されたと思 う6階建ての大きな建物だった。