「苗代川」は「ノシロコ」と呼ばれていた2008/01/09 08:04

 「故郷忘じがたく候」を読むために『司馬遼太郎全集29』(文藝春秋)を、 図書館で借りてきた。 結論をいえば「苗代川」は、普通「なえしろがわ」と 読むらしいが、江戸時代は「ノシロコ」と言っていたことが、出て来る。 「な えしろこ」ではなかったけれど、私の「こ」の記憶は、半分正しかった。 だ が、漠然とは憶えているつもりだった物語の細部は、ほとんど忘れていて、再 読、あらためて感動したのであった。 まだの方には短編なので、一度、お読 みになることをおすすめする。

「ノシロコ」は、二箇所に出てくる。 一つは江戸時代、天明の頃の医師で 旅行家の橘南谿(たちばな・なんけい)が、この地を訪問した時の記録である。  もう一つは、薩摩の人がここの地名を「ノシロコ」と言うが、川がないのに川 の地名があるのはよくわからない、地下水にも乏しく、井戸を掘っても容易に 水脈にあたらないなどの条件のために、太古以来ひとがすまなかったのであろ う、という江戸期の役人の留書をもとにした記述である。

慶長2(1597)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵での南原(ナモン)城の戦いに参加 した薩摩の島津義弘が、朝鮮の陶工を捕虜にした。 茶道の隆盛で珍重された 陶磁器を、焼く技術が薩摩にはなかったからだ。 秀吉が死んで、和議の後、 撤退することになったが、それは敗走ともいえる混乱の中での帰国だった。 ど う来たものか、朝鮮の陶工たちは、薩摩の地に流れ着いたが、ほとんど遺棄状 態に置かれた。 彼等がようやくたどりつき、なだらかな丘陵と雑木の多さが 「故山ニ似タリ」として、居所に決めたのが、ここ「苗代川」だったのである。  現在は美山(みやま)という。 「故郷忘じがたく候」に描かれる沈寿官(ち んじゅかん)窯の所在地は、日置市東市来町美山である。

コメント

_ サンキュー山久 ― 2017/04/05 15:19

ノシロコとは確かに不詳
誰が命名した呼名なのか?

苗代川は不毛な地帯で島津家はこの辺りに遺棄すべく放置していたのか?

島津家は本当に陶工技術を考えたのか?

解明の鍵かもしれない。

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