十七歳上の女2008/03/16 07:43

 白河法皇の子と考えて間違いがないという顕仁皇子(崇徳天皇)を、鳥羽天 皇の皇后璋子が産んだ一年前、元永元(1118)年に西行―佐藤義清は生まれた。  待賢門院璋子は、佐藤義清が二十三歳で出家したの時には四十歳、ふたりの間 には、十七歳の歳の差があった。 最近破局したと週刊誌広告の見出しが伝え る、小泉今日子(40)と亀梨某(22)と、ほとんど同じ年齢差であるから、900 年近い時を隔てても、そういうことはあるのだということが、わかるのである。

 『源平盛衰記』に、西行が出家した原因は「恋」で、「申すも恐れある上臈(じ ょうろう)女房を思ひかけ進(まい)らせけりたるを、『あこぎが浦ぞ』といふ 仰せを蒙りて思ひ切り」と、あるそうだ。 「阿漕ヶ浦」は三重県津市の海浜、 伊勢神宮に供する神饌の漁場で殺生禁断の地とされていた。 ある漁師、何度 も何度も繰り返し魚を獲っていたのが、ついに発覚し、捕えられその罰で海へ 沈められたという。 古今六帖の「伊勢の海あこぎが浦に引く網もたび重なれ ば人もこそ知れ」の歌から、隠し事も度重なれば広く知れ渡る意味で使われる ようになった。 『宿神』で、待賢門院璋子は「義清よ―」「あきらめよ」「わ かっておる」「しかし、無駄じゃ」「あこぎが浦ぞ」と、言う。

 佐藤義清の母方の祖父、源清経は稀代の数奇者で、今様の名手で、蹴鞠にも 長じていた。 『宿神』では、義清や鞠の名人藤原成通に蹴鞠を教えたその清 経も「あれが見えた」設定になっていて、その清経が妻とした目井という女性 も、十七歳の歳上だったことが出てくる。 清経は、人並みの容貌だった目井 の今様の才と、心根をいたく愛して、「才が人を救ける」「容色衰えようとも、 芸は衰えぬ」と、言っていたとある。