『永日小品』を味わう<等々力短信 第985号 2008.3.25.>2008/03/25 06:38

 「永日」は「日永」ともいい、歳時記には「春分から少しずつ日が伸び始め る。日中ゆとりもでき、心持ちものびやかになる」とある。 ちょうど、これ からの感じだ。

 11月に「文豪・夏目漱石」展を書いてすぐ、芳賀徹さんが論文の抜刷を送っ てくださった。 「夏目漱石の美しい小島―『永日小品』の一篇「昔」を読む」 (2007年9月京都造形芸術大学紀要〔GENESIS〕第11号)である。 『永日小 品』を指して「美しい小島」とは、いかにも芳賀さんらしい。 初めに「永き 日」の説明があり、漱石自身の「松山客中虚子に別れて」と詞書のある句<永 き日や欠伸うつして別れ行く>(明治29年)も引かれている。 『永日小品』と 題した漱石の念頭には、<遅き日のつもりて遠きむかしかな>と詠んだ「ゆく 春の詩人」与謝蕪村があり、茫としていつまでも暮れぬ春の日のアンニュイの うちに、よみがえってくる「遠きむかし」のさまざまな映像、なつかしい人々 の声やすがた、眼の前にある明治の社会のかすかな陰翳、もの憂いままにのぞ きこむ自分の心の奥のあやしい風景などを、文章に綴った、と芳賀さんはいう。

 「昔」という一篇は、漱石が英国留学の終りに近い明治35(1902)年10月、 スコットランドはハイランドの保養地ピトロクリを訪ね、日本びいきのジョ ン・ヘンリー・ディクソンの館に滞在した旅の回想である。 ごく短く、全文 で1,600字ほどしかない。 「美しい小島」の中でも「際立って美しい」とす るこの小品を、芳賀さんは、高適や陶淵明の詩、蕪村や虚子の句を引き、久隅 守景、渡辺崋山、小川芋銭、はたまたラファエル前派など英国世紀末画家の絵 画まで動員して、華麗に読み解いていく。

 漱石展を前にピトロクリを訪ねた朝日新聞の牧村健一郎記者は、顔を顰める エディンバラの駅員にPITLOCHRYの綴りを見せて、「ペットロッホリー」と 「ペ」をつばを吐くように強調する発音を、その駅員としばらく練習してから、 ホームに向ったそうだ。

 漱石のピトロクリの谷は、秋の眞下にあった。 山の背の雲は「いつ見ても 古い雲の心地がする」。 漱石の漢詩に「人間 固(も)と無事(むじ)」とある、悠 悠たる雲の往来、東洋古来の美学にこそ近づく秋の日の小世界だった。 だが 17世紀末、この谷の川を血で染める高地人と低地人の合戦があった。 有為転 変が「静かな谷」の住民たちを鍛えて「世に熟れた顔」の悠然たる暮しぶりに した、と芳賀さんは読む。 味わいつくすように丁寧に読み込む、達人の至福 の読書法に、多くを教えられた。

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