相反したものを受け容れる日本2008/04/09 07:12

 松岡正剛さんの話の続き。 編集哲学や思想の中にも、ハードとソフト、陰 と陽というか、一対というものが、常に大事だと思ってきている。 シングル・ メッセージじゃあなくて、もっと両極を持ちながら、あり得たい。 それは日 本とも関係がある。 日本も、日本人も、変だった。 ながらく文字を作らな かった。 漢字を輸入して、万葉仮名にして、ひらがなとカタカナにし、中国 文字は日本読みにした。 そういう日本は、最初からデュアルじゃないか、最 初から相反したものを受け容れていたんじゃないか。 天皇と幕府、公家と武 家、二つ二つを遵守してきた。 神仏はぐちゃぐちゃだ。 矛盾はあるが、矛 盾したまま進んで行くのが、いい、絶対面白い。 明治維新は、片方を捨てた。

 日本人のメソッドや哲学や芸能は、もっとラディカルに進んだほうがいい。  けがれたものが聖なるもので、聖なるものの中に権力があり、けがれたものが あるという、普通はしない見方を復活する。 価値観の相対性を多様化するよ うなワールドモデル、ソシアルモデルのようなもの、「編集的世界観」をどっか に作っていくことになる。 「編集」とか「笑い」を一つのモードにすること によって、価値観の転倒とか、柔らかいテロリズムというのか、面白いタブー を混ぜていく以外ないのではないか。 「編集」はズレを生む。 そのズレが、 新しい価値観を生む。 奇人変人がいなくて、みんなマイルドになってしまっ た。 もっと危険であって、いい。