小三治のマクラ・広州俳句会2008/04/06 08:12

 「お集まりで」と出て来た小三治も「ほんの数日前に」俳句会で広州へ行っ た、と始めた。 杭の杭州でなく、広い方の広州。 亜熱帯性で、暖かい。 二 年前にも行ったのだけれど、さる総理大臣が靖国神社に五百円玉を上げたとか で、中国が怒り、デモが起きて大騒ぎになった。 香港から汽車に乗ったら、 事件が起きたので、俳句会は取止めになった。 今回は、そのリベンジで、俳 句と講演、落語の短いのを扇橋と私がやる。 講演は抱負を語るってんだが、 小沢昭一や永六輔、今の日本をこんな風にしてしまった人ばかり。 聞く人は 在留邦人、こんなにいるのかというほど大勢いる。 着る物とか何かそういう ものの生産が、広州のあの辺に集中していて、中国の産業の中心地になってい る。

 実はこの旅行、私は行きたくなかった。 みなボケちゃって、大変なんです。  私は68だけれど、抜群に若い。 皆何だかわからない、その最たるものが扇 橋、ほかにも二、三人いるけれど、飛び抜けている。 年取ってじゃあない、 扇橋は若い時からそうだった。 二年前は(あとで今回もそうだった、と判る)、 永さんのマネージャーと私のマネージャー、それに私の娘、この三人の女性が いたから、出かけた時と同じ数で、帰って来られた。 前回、ホテルに泊まっ て、娘が扇橋の部屋に行った。 小さい時から知っているから「扇橋おじちゃ ん」と入ると、部屋が真っ暗、扇橋がトランクに腰を下ろして、ロダンの「考 える人」みたいになっている。 「寝ないの」と訊くと、鞄が開かないと言う。  息子の嫁さんの妹とかのトランクを借りてきたのだそうで、開け方を聞いてき たのだろうが、忘れたのか、開け方がわからないという。 扇橋は、この俳句 会の宗匠、どんなに手数がかかるか、わかるでしょう。

 あの加藤武がこんな国と戦争してはいけなかった、と言ったけれど、中国は いやんなっちゃうぐらい、広い。 日本は、軍隊がいる所は勝つ。 それで、 どんどん奥まで行ってしまった。 途中の、まわりの人は、何も気にしていな い国柄だ。 あの数と広さは恐ろしい。 無理難題をふっかけられても、けし て戦争しちゃあいけない。

小三治の「うどんや」2008/04/07 07:11

 商売で、これはやさしいというものはない、と小三治は「うどんや」に入っ た。 屑屋は、楽でいい商売だなあ、時がゆっくり過ぎているようでいいなあ、 と思っていた。 大きな声で呼ばれた時は、儲けはない。 お屋敷は近所に気 兼ねして、小さな声で呼ぶから、目で合図して入る。 これがコツ。 小さな 声で「屑屋さん」と呼ばれた。 長屋のハバカリからだ。 泥棒が金を抜いた 財布でも出すのかと、寄っていくと、「紙があったら一枚」 二八蕎麦も、小さ な声で呼ばれたほうが、儲けがある。 ばくち場や、奥に内緒の店の者の夜食。  売り声も蕎麦が江戸前で、鍋焼きうどんは、そうはいかなかった。 うどんが 広まるのには年月がかかったが、寒い時はうどんのほうがいい。

 ここから、婚礼帰りの酔っ払いがうどん屋にからむ話になる。 火にあたっ て、仕立屋の多平と愛嬌者のかみさんの娘、美い坊、十八が今晩婿を取った。  美い坊、きれいな形で出て来た。 どっかで見たことがあると思ったら、箪笥 屋の看板だ。 ちっぽけな茶箪笥みたいなものを祝っただけなのに、「おじさん、 さてこのたびは」って、学問のある人か、綱渡りの口上みたいなことを言う。  この繰り返しを、うどん屋も憶えたところで、水をもらう。 いくら?、ただ で、ただか、もう一杯。 もっとどうぞというのを、小さい時、神田川に落っ こって、しこたま水を飲み、どっと患いついた、と、からむ。 結局、親方、 うどん差し上げたいんですが、に「おれ、江戸っ子だよ」

 売り声を上げると、子供が寝たばかりだと怒られた、うどん屋、いよいよ小 さな声で呼ばれるのだが…。

松岡正剛さんの「編集」2008/04/08 06:34

 一晩聴いてきた落語の話を、8日間も書いてきて、いいのか。 いいのであ る、と思われるような話を聞いたので、書いておく。

 4月1日放送の「爆問学問」、二年目に入った「爆笑問題のニッポンの教養」 は、File.32「世界は編集されている?」編集工学研究所長の松岡正剛さんだっ た。 この番組を見るまで、松岡さんのいっている「編集」というのが、どう いうものなのか、わからなかった。 それぞれの知には、独自の物の見方や考 え方がある。 それらは、20世紀までに、ほぼ出尽くした。 それらを縦横に 組み合わせた時、新たなアプローチが生まれるはずだ。 松岡さんは、それを 「編集」と呼ぶ。

 まず、いろいろな方法を集めてくる。 記憶したり、記録したりしたインプ ットを、どこかでアウトプットする、つまり語ったり、表現したりして再生す る。 人間の脳や能力は中途半端で、入ったことを再生する時、INとOUTは、 どうしても同じにならない。 違うものになる。 その「ずれ」が重要だ、そ の間に、関心がある、と松岡さんは言う。 言語の不埒なおぼつかなさ、悲し みとか、笑いとか、おかしみというものも、そういう間の「ずれ」で起こって くる。

 書き言葉と話し言葉は、本質的に違う。 15,6世紀までは音読だった。 ア コースティック(聴覚的)な回路が、ずっと人間の身体と知と表現と喜怒哀楽 をつないでいて、声と笑いと哲学は一緒だった。 グーテンベルクの活版印刷 の発明以来、身体に通っていた声が、なくなった。 その声とともに、書き写 す(書写性)ことがポーンと抜けて、結局、黙読社会になっちゃった。 声の 文化を残すというのは、古代以来の人間の、その場限りの出会いを、一回一回 身体を通して伝えていく、そういうメソッドを伝える気がする、と松岡さんは 語った。

 その場限りの出会いといえば、落語も、句会も、こうしたテレビ番組も、そ うだなあ、それを書いておくのも「編集」かと我田引水したのだった。

相反したものを受け容れる日本2008/04/09 07:12

 松岡正剛さんの話の続き。 編集哲学や思想の中にも、ハードとソフト、陰 と陽というか、一対というものが、常に大事だと思ってきている。 シングル・ メッセージじゃあなくて、もっと両極を持ちながら、あり得たい。 それは日 本とも関係がある。 日本も、日本人も、変だった。 ながらく文字を作らな かった。 漢字を輸入して、万葉仮名にして、ひらがなとカタカナにし、中国 文字は日本読みにした。 そういう日本は、最初からデュアルじゃないか、最 初から相反したものを受け容れていたんじゃないか。 天皇と幕府、公家と武 家、二つ二つを遵守してきた。 神仏はぐちゃぐちゃだ。 矛盾はあるが、矛 盾したまま進んで行くのが、いい、絶対面白い。 明治維新は、片方を捨てた。

 日本人のメソッドや哲学や芸能は、もっとラディカルに進んだほうがいい。  けがれたものが聖なるもので、聖なるものの中に権力があり、けがれたものが あるという、普通はしない見方を復活する。 価値観の相対性を多様化するよ うなワールドモデル、ソシアルモデルのようなもの、「編集的世界観」をどっか に作っていくことになる。 「編集」とか「笑い」を一つのモードにすること によって、価値観の転倒とか、柔らかいテロリズムというのか、面白いタブー を混ぜていく以外ないのではないか。 「編集」はズレを生む。 そのズレが、 新しい価値観を生む。 奇人変人がいなくて、みんなマイルドになってしまっ た。 もっと危険であって、いい。

川瀬巴水の木版画2008/04/10 06:41

 5日、江戸東京博物館で6日に終わった川瀬巴水展「東京風景版画」を見て きた。 初めから見る気のなかった「篤姫」展も同じ期限なので、長い行列が 出来ていた。

 川瀬巴水(はすい)(1883(明治16)~1957(昭和32))は木版画家、東京市芝区 露月町(現、港区新橋5丁目)に生れ、1910(明治43)年白馬会研究所で岡田三 郎助に洋画を学び、のちに日本画の鏑木清方に入門した。 1918(大正7)年伊 東深水の近江八景の木版画に感動、版元の渡邊庄三郎のもとで、版画家として の活動を始めた。 その版画は、版元と絵師・彫師・摺師の協同による、江戸 時代の浮世絵と同様の伝統的な木版画技法によって制作された。 川瀬巴水は 「広重の再来」とも、「旅情詩人」とも呼ばれた。

 私は以前から巴水の風景版画の独特の情緒が好きで、この展覧会はどうして も見たいと思ったのだった。 1986(昭和61)年に東京都庭園美術館で開催され た「回想の江戸・東京」展や、芳賀徹さん編『絵のなかの東京』(岩波書店・1993 年)で、心の中に焼きついた巴水版画を、機会があれば、もっと沢山見たいもの だと考えていたのである。