平山洋著『福澤諭吉』の挑戦<等々力短信 第987号 2008.5.25.>2008/05/25 07:18

 5月10日、平山洋さんの『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)が上梓された。 副 題は「文明の政治には六つの要訣あり」、既刊六十を数えるミネルヴァ評伝選の 一冊だ。 平山洋さんの衝撃的な『福沢諭吉の真実』(文春新書)は、2004年 12月25日の「等々力短信」946号「創立150年への宿題」で紹介した。 今 度の本は、その延長上にある。 帯には「今までの研究は何だったのか」とあ り、問題提起の挑戦的姿勢は変わらない。

 平山さんが「新たな福沢像」として提示するのは、主に四点である。 (1) 福沢には「侵略的絶対主義者」の要素はなく、徹頭徹尾「文明政治の六条件」 をアジアに広めようとした伝道者「市民的自由主義者」だった。 (2)福沢 の思想形成に郷里中津の儒者野本真城が大きな影響を与えていた。 (3)維 新後明治14年政変までの著作は、議院内閣制度を定めた憲法の制定を政府に 迫る活動であった。 (4)巻末の「時事新報論説」に関する資料によって、 従来過大評価されていた日清戦争以降の言論活動に根拠がないということが明 確化できた。

 『福沢諭吉の真実』以後、時事新報の福沢論説についての研究は少しずつ進 んではいるが、私が「創立150年への宿題」で期待したほど活発な議論が展開 されてはいない。 どちらかといえば、平山さんは異端視され、無視されてい るといってもよい。 福沢が『文明論之概略』で説いた、文明はどれも、異端 妄説、多事争論から生れる、ということをあらためて思い出す必要があるだろ う。

 私が今度の本で面白いと思った点を二つ挙げておく。 まず、中津藩内に、 保守派と改革派、実学派と尊王派の争いがあり、それが福沢の長崎遊学から蘭 学塾開塾まで複雑にからんでいること。 福沢は要請を受けて砲術家、軍事専 門家として育ち、福沢塾も主に西洋の軍事技術を研究する場であったのが、三 度の洋行を経て英国のパブリックスクールを範とした教養教育の場に変質した。  第二に、『福翁自伝』の空白期間と、秘匿されたのか登場しない人々。 咸臨丸 帰国から、遣欧使節出発までの一年半の動向…攘夷で険悪、身の危険、黙って 勉強。 元治元(1864)年10月から再度の渡米までの26か月間…長州征伐の 政治活動をした、明治政府関係者への敵対行動だった関係で。 登場しないの は、父方の祖母楽、野本真城、橋本左内、大鳥圭介、小栗忠順など。

 多くの人に『福澤諭吉』が読まれ、論争の巻き起こることを期待したい。

フライ英国大使の話を聴く2008/05/25 07:20

 17日、三田に創立150年記念セミナー「英国に学ぶ」という連続講演会の初 日を聴きに行った。 学生時代にその名を知っていた「あるびよんくらぶ」英 国文化研究会の主催、いま現役の学生はいないそうだが50代から70代の OBOGが講演会や各種の親睦行事を行っているのだそうだ。 「あるびよん」 は日本の「大和」にあたるイギリスの古名だと、これも学生時代に聞いていた。

 土曜3週連続の初日17日の講師は、駐日英国大使グレアム・ホルブルック・ フライ氏と、先日小泉信三展の話を聴いたばかりの山内慶太さんだった。  フライ大使は「シェクスピアからベッカムまで―日英関係」を流暢な日本語 で話した。 日本と英国の関係を、両国が価値観を共通にしているか、人々の 心の交流、という二つの面から話をした。 最初に日本に来たイギリス人は 1600年のウィリアム・アダムス(三浦按針)、家康に可愛がられ旗本となって、 日本人の奥さんを持った。 イギリスにも奥さんがいて、時々お金を送ってい た。 幕末から明治にかけての外交官、最後は公使になったアーネスト・サト ウも日本人の奥さんがいたが、当時は認められず公表していなかった。 フラ イ大使は、日本人の奥さんを持っているのだそうだ。

 創立150年の慶應義塾と同じ1858(安政5)年の日英修好通商条約以来150 年、日英同盟や第二次大戦という浮き沈みはあった。 現在、日英はほとんど 全てで同じ考え方をしているので、外交はやることがない(笑)。 民主主義、 自由主義、法律制度、市場経済など基礎になる価値観を共通にしているからだ、 とフライ大使は言う。