「紫陽花ゼミ」で話したこと2008/06/18 07:09

 5月6日にその場で題を考えるように言われ、キャッチ・コピー風に「安政 5(1858)年から150年なのに、なぜ慶應義塾なのか」を選んだ。 2006.10.19. の三田演説会での河北展生さんの講演「幕末10年間の学塾経営の苦心談」を 聴いて、なるほどそうだったのかと思ったのを、思い出したからである。 安 政5(1858)年に築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で蘭学塾として始まった福沢塾が、 慶應4(1868)年4月芝新銭座に校舎を建て私立の学校として独立し時の年号 をとって慶應義塾を名乗るまで10年の時間があった。 その間に、蘭学から 英学への転向、最近の研究のいう砲術家・軍事専門家から、三度の外国行きを 経て、経済学や歴史や文明論を読み当時日本一の西洋事情通となった福沢、そ のへんを話すのが、小尾ゼミ的だし、事務局の狙いかと思ったのである。

 ひと月の間、あれこれ考えて、次の四つを柱にした。 『文明論之概略』の 精神から「経済学」につながるところは、『三田評論』6月号の座談会で、小尾 門下の宮内環准教授が的を射た発言をしていたこともあり、後日のゼミにまか せて、あえて踏み込まないことにした。

 <1>福沢諭吉と私―私が、なぜ福沢いかれ派となったか

 <2>『広辞苑』第六版【福沢諭吉】に苦情を言う

<3>安政5(1858)年から150年なのに、なぜ慶應義塾なのか

 <4>晩年の福沢は幸福だったか―最近の福沢研究の動向

 レジュメには、おまけに以前つくった「福沢諭吉いろはがるた」をつけた。  満年齢に換算した「福沢諭吉年譜」と『広辞苑』【福沢諭吉】のコピーも用意し た。 支離滅裂になる可能性があったので、レジュメはなるべくくわしく書い て、その線を外れないように話すことにした。

 結果はといえば、自分ながらまずまずの出来で、拍手ももらい、けっこう喜 んでもらったように思う。 質疑応答もあり、終わって訊けば、1時間40分 も話していたそうだ。 ともかく宿題を果たして、ほっとした。