黒田孝高如水の賭け2008/06/24 07:08

 黒田孝高如水の話の続きである。 テレビでそう言ったように憶えていて、 きのう「小さな天守を持つ小体(こてい)な城」と書いたが、『街道をゆく』「中 津・宇佐のみち」には天守閣などはつくらなかっただろう、とある。 如水は 金銀に淡泊だったが、金銀は溜めた。 天下をとる乾坤一擲の大勝負のためだ と、司馬さんは言う。 秀吉が死に、石田三成が挙兵すると、如水は九州平定 のために出陣した。 嫡男長政が徳川家康の東軍に参加していたので、中津に はほとんど手勢が残っていなかったけれど、ありったけの金銀をばらまいて人 を集め、九州一円を席捲した。

しかし9月15日、関ヶ原で東西が決戦し、石田三成が敗れたという報が、 大坂と中津を三日で結ぶ早船による逓伝通信によってもたらされた。 終わっ たか、という思いだったろうと、司馬さんは言う。 一日で終了するとは思っ てもみなかった。 長期戦になれば、九州をまとめて駆けつける自分にも、チ ャンスはある。

 そういうものだというあきらめのよさは、嘘のように見事で、というのは司 馬さんらしい言い方だが、自分のために切り取った九州の半ばの後始末をした あと、それを家康に返上し、隠居の身に戻って、知らぬ顔をきめこんだ。 す ぐさま、筑前(福岡)に転封され、そこで59年の生涯を終えた。