黒田の後の中津城2008/06/25 07:16

 黒田如水が筑前(福岡)に移り、中津城の黒田時代は、天正15(1587)年 から慶長5(1600)年の13年間で終わる。 そのあと、中津に入ったのが細 川忠興で、関ヶ原の功によって豊前と豊後二郡三十九万九千石という大封をも らって、丹後宮津から移ってきた。 忠興は、豊後に大規模な小倉城を築いて、 子の忠利を居らせ、中津は自分の隠居城とした。 中津の細川時代は、寛永9 (1632)年までの32年間だった。

 忠興・忠利が肥後熊本五十四万石に移った後の中津城は、黒田や細川のよう な外様でなく、譜代大名の城になる。 まず信州の松本から小笠原氏が来た。  小笠原氏は室町時代にはすでに信州の守護だった家だそうだ。 小笠原氏の時 代が享保2(1717)年までの85年間、奥平氏十万石が明治4(1871)年まで 154年間続く。 奥平氏は三河以来の筋目の家柄、小笠原氏に継嗣がなく、幕 法で領地を没収されたため、丹後宮津から転封されてきた。 中津時代に、幕 閣にも名を連ねた幾人かの名君を出した。

 福沢諭吉が書いた「福澤氏記念之碑」(現在は麻布の善福寺の墓所にある)に よると、福沢家の祖先は、もともと信州の福沢という土地の出で、元禄宝永の 頃、兵助という人が中津の海岸下小路に住んでいた、という。 元禄宝永は1588 ~1710年だから、小笠原氏の時代には中津にいたことになる。 兵助の子兵左 衛門の、そのまた孫の友米(ともべい)が初めて、奥平氏に奉公して、足軽に なったという。 この碑文にある「福澤氏の先祖は必ず寒族の一小民なる可し」 を、司馬遼太郎さんは「福沢のあかるさがよく出ていて、いい文章である」と、 『街道をゆく』に書いている。

『広辞苑』の【福沢諭吉】<等々力短信 第988号 2008.6.25.>2008/06/25 07:18

 15日、紫陽花真っ盛りの鎌倉極楽寺の成就院で開かれた、小尾恵一郎ゼミ OB会「紫陽花ゼミ」で、光栄にも「福沢諭吉」について話をさせてもらった。  柱の一つに、『広辞苑』【福沢諭吉】に苦情を言う、を選んだ。 『広辞苑』第 六版には、こうある。  『ふくざわ‐ゆきち【福沢諭吉】思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方 洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行し て三回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動。一八六八年(慶応四) 塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。八二年(明治一五)「時事新報」を創刊。 独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世 界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(一八三 四/一九〇一)』

 手元の第四版もほぼ同じで、「豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ」、「江戸に蘭 学塾を開き、また英学を研修」とあり、「(幕府)に用いられ」の句がないのが、 違うだけだ。

 苦情の第一は、福沢の生年の西暦、「一八三四」。 福沢が生れたのは天保5 年12月12日だが、西暦では1835年1月10日に当る。 天保5年の大部分 は1834年にはなるけれど…。 そして『福翁自伝』などの福沢の年譜は、数 え年で書かれているため、天保5年暮の生れは、満年齢より二歳多くなる嫌い がある。 塾創立は実に満23歳。

 第二は、「独立自尊を鼓吹。のち…」。 福沢は晩年の大患後、近代化に伴う 国民の道徳水準を心配して、高弟達に「修身要領」29条を編纂させた(明治 33(1900)年2月24日発表)。 その中心にすえられたのが「独立自尊」だっ た。 福沢は、この四字熟語を明治23年8月の『時事新報』社説や明治30年 6月の演説で使ってはいるが、その根本思想を表すものとして一般化したのは、 あくまでも明治33年以降なのだ。

 第三は、「脱亜論」と「脱亜入欧」。 著書の中に「脱亜論」があるが、「脱亜 論」は明治18(1885)年3月16日の『時事新報』社説の題目で、本ではない。  「『脱亜入欧』を唱えた」とあるが、丸山真男さんによれば(『三田評論』昭和 59年11月号の座談会「近代日本と福沢諭吉」)、福沢は「脱亜」という言葉は、 この社説の題目に一度使っただけだし、「入欧」という言葉は使っていない。 戦 後、この「脱亜論」と「脱亜入欧」のレッテルを貼って、福沢はアジアを蔑視 し、大陸侵略的だったと批判する人々が現れた。 一人歩きしたそのレッテル に『広辞苑』は引きずられている。