新橋演舞場・金田中・東をどり2008/08/05 07:08

 先だって学校を出てすぐ、毎日銀座の裏表を歩いていた話を書いた。 それ で思い出したのが、去年の5月21日から朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」に 連載された「銀座 情話」である(文は加藤明記者)。 その第3回が「東を どり」の話だった。 新橋演舞場(銀座6丁目になる)とすぐ隣の高級料亭「金 田中」には、三代にわたる夫婦の物語があった。

 1954(昭和29)年、慶應国文科の卒業を控えた岡副昭吾さんが「金田中」 を経営する両親に「教授の勧めもあり、大学に残って万葉集の研究を続けたい」 と切り出した。 「東をどり」の陰の立役者のひとりで、演舞場の社長も務め た父の鉄雄さんは「好きなようにやったらいい」といったが、母のみさをさん が涙を流して反対、昭吾さんは大阪へ板前修業に行く。 慶應時代に教授らと 訪れた万葉旅行で、よく案内してくれた奈良の有名料亭の娘美代子さんと親し くなる。 みさをさんの急逝で翌年、結婚、美代子さんは名物女将となって「金 田中」を切り盛りすることになる。

 演舞場の誕生は1925(大正14)年、ふだんの興行は松竹がやるが、「東をど り」だけは置屋と料亭の主催で、組合幹部らが毎回、知恵を絞った。 戦後、 谷崎潤一郎や吉川英治らの名作を脚色した舞踏劇が評判を呼び、全国的な人気 になった。 岡副昭吾さんも大学2年のとき、企画にかり出され、恩師の折口 信夫に「万葉絵巻を」と頼んで「万葉飛鳥の夢」という新作を書いてもらった。  父以上に「東をどり」にのめり込み、舞踊劇の企画、制作には心血を注ぎ、85 年には父の死去で演舞場の5代目社長を引き継いだ。

反省効いて慶應高校、甲子園初戦突破2008/08/06 07:07

 5日は、雑司が谷の下水道で工事の5人が流されたという雷雨。 大雨情報 が流れるテレビで、甲子園の慶應高校・松商学園戦を見る。 3月26日のセン バツでは、21世紀枠の山口・華陵高校を見くびったようで、13残塁、0-1で涙 をのんだ。 その反省が効いたのか、北神奈川大会決勝の東海大相模戦も粘り 強いところを見せて、夏も甲子園にやってきた。

 センバツと同じ田村(今回は背番号1)の先発、2回、松商学園に1点先制 され、上田誠監督の試合後の談話通り「いやな思い出」がよぎったが、その裏 すぐに逆転した。 死球の鈴木裕を阿加多がバントで送り、田村の右前ヒット で1・3塁、鈴木亮三振の二死後、8番斉藤の左前安打で1点、9番溝口センタ ーオーバーの三塁打でさらに2点、1番内藤もセカンド急襲の内野安打で、合 計4点を取った。 二死後、下位打線がつないだのが光った。 松商学園の林 投手は、140キロ台の速球を投げたが、変化球が甘く、「ベルト付近のストレー ト狙い」という慶應の指示が当たった。 松商小尾監督は「2回がすべて」と 語った、という。 慶應が、3回にも二死から、さらに4回にも、一点ずつを 加点、これが結果的に効いた。 8回からリリーフした只野は、先頭の4番吉 沢にボールが続き、レフト前にヒットされた不安な立ち上がりだったが、5番 吉沢のセンター前に抜けようかという当たりを山崎が好捕、ダブルプレーにし て救われた。 これが紙一重の岐路だった。 6-2からの9回表松商学園に2 点取られたが、6-4で逃げ切ることが出来た。 ヒット数も慶應12本に対し、 松商10本だった。

 ナイスゲーム、甲子園の楽しみがつづく。

岩下尚文著『芸者論』の誕生2008/08/07 07:14

 三田完さんに教わった岩下尚文さんの本だが、三島由紀夫を描いた『見出さ れた恋 「金閣寺」への船出』ともう一冊、『芸者論 神々に扮することを忘れ た日本人』(これも雄山閣)があった。 なぜ岩下尚文さんが『芸者論』かとい えば、新橋演舞場に勤めて、その社史の執筆と編纂に関わり、演舞場の創設の 母体となった新橋花柳界を調査、明治生まれの老妓たちの証言を機会があった からだという。 岩下さんはそこで、宴という古代以来の信仰生活にもとづく 場を舞台にして、江戸以来の伝統芸能を保護継承してきた、芸者の文化的意義 についての確信を得たという。

 ちょうどその頃、芸妓組合の幹部である名妓から、これまで新橋が継承して きた宮薗節が途絶える寸前と聞かされ、勧められた岩下さんは、旧交詢社にあ った稽古場に通い、千之流の全段を揚げ、名を許される。 せっかく浄瑠璃を 憶えても、三味線弾きがいなくては、語れず、継承もできない。 幸いなこと に、古曲の難しさにあえて挑み、薗八を稽古しようという藝大出身の少壮の三 味線方が現れる。 岩下さんと共に、千之流の名取となったこの人、宮薗千雄 さんが、実は雄山閣のご子息だった。 そうした縁が重なり『芸者論 神々に 扮することを忘れた日本人』は、生まれたのである。

はるばる訪れる神を饗応する2008/08/08 07:19

 このところ友人に頼まれて「日本人の心の源流」について書かれた原稿を読 んでいた。 その問題を考える過程で、岩下尚文さんの『芸者論』がたいへん 役に立った。 もう一冊、松岡正剛さんの『17歳のための世界と日本の見方』 (春秋社)も、参考になったのだが、その本については、また別に書く。

 『芸者論』の第一章は「神々の振舞いを演じるという、記憶の系譜(古代~ 中世)」だ。 折口信夫は日本人の信仰的な生活のあれこれを説くのに、遠い海 の彼方から、波を超えてはるばると、人間の幸福を約束するために訪れる神の ようなものの存在を仮定し、これを迎える側の私たちの祖先の饗応の仕方、そ して丁重に送り出す方法をひとつの基本的な型に仕組むという、素晴らしい方 法を打ち立てた、と岩下さんは言う。 「マレビト」といわれる考え方だろう。  この型に日本人の年中行事のさまざまな位相をあてはめれば、今に残る私たち の暮しの起源とその意味合いが、実にあざやかに説明できるというのだ。 岩 下さんが『芸者論』で説く色里についても、折口の立ち上げた型をあてはめる と、まことに筋が通るという。

 芸者の源をたどっていくと、古代の巫女に行き着く。 古代の巫女は、女性 のすべてが生まれながらにして備えていた信仰上の資格だった。 女児が裳着 (もぎ)を済ませると(12から14歳、男子の元服に当る)、自家の神に仕える べき巫女の資格を得ると共に、一人前の女性と認められた。 彼女は、神の側 近く仕えることで、時に応じて神のお告げを聞き、それを父親や兄弟に伝える ことで、その家の安全や繁栄が保たれると、古代の人々は考えていた。 巫女 である女性は、家族の幸福のために呪術も行った。

このような巫女の仕事の中で最も大切とされたのは、祭りの夜に、自分の家 あるいは村を訪ねてくる男を迎えて、一夜を共に過ごし、夜の明けぬうちに送 り出すという、神婚秘儀のつとめであった。

神の嫁、「タマフリ」と「タマシズメ」2008/08/09 07:21

 性の方面に関して、私たちの先祖がいかに自由な考えを持っていたかという ことを、まず理解してかからなければ、日本文化の本質に寄り付くことは出来 ない、と岩下尚文さんは言う。

 古代の人々の考える幸福とは、遠い海の彼方にあるところ(自分たちの先祖 の魂が寄り集う、永久の場所である常世の国)から、毎年、日を決めてはるば ると、子孫である自分たちの住むところへ訪ねてくる賓客に対して、服従を誓 うことによって得られるものである、と考えられていた。 その契約を無事に 履行してもらうためには、賓客に御馳走を差し上げ、歌舞で楽しませることは もちろん、自分たちの集団の中でも才色備えた女性を選び、一夜限りの妻とし て差し出さなければならない、と信じられていた。 そのことは、その集団が 賓客に服従することを表すとともに、その女性がお守りをしている神のたまし いが賓客に贈答される、と考えていたからだ。

 古代の人々は、人間の活力の根源はタマ(魂・霊)の新鮮さにあると考えて おり、タマが身体の中心に納まっていれば健康で、タマが身体から離れて帰っ てこなくなった時が死であると考えていた。 衰えかけた魂に活力を与えるた めには、ほかの魂を自分の魂に付着させることで増強を図らなければならない。  魂を体内の納めるべきところへ納めることをタマシズメ(鎮魂)と呼び、新た に付着させることをタマフリ(魂振)と呼んで、健康を保ち、活力を維持する ためには、どちらも大切な仕業であると考えていた。

 豊穣をもたらす側の賓客は、前の年の契約が履行された証である作物の一部 を受納するとともに、一夜妻によるタマフリを受納することで契約が更新され、 来年の豊穣を約束して帰っていくわけである。 この神と人との契約は大切な ものであるから、忘れないように、また永久に実現されるように、毎年同じ夜 に若い男と女によって演じられるようになっていく。