志ん輔の「猫の災難」 ― 2008/09/01 07:12
志ん輔は、夢楽や南喬など(?、志ん輔・鯉昇・伯枝は下っ端で楽屋に泊ま った)と、十日間の興行があって名古屋の大須演芸場に行った時、上方から来 ていた誰か(忘れた)に「猫の災難」を教わり、あとで小さん師匠に直しても らった「ブレンド」だといった。 もとは大阪の噺で、上方のは、仕込みとサ ゲが違うのだそうだ。
志ん輔のは、鯛のアラを、隣からもらうのではない。 熊が夜遅くまで一生 懸命仕事をしていたら、親方が明日は休んでいいと言った。 休みが嬉しくて、 朝湯に行き、煮売り屋で一杯やって、魚金の前を通ると、立派な鯛のアラがあ った。 岩田の旦那が鯛を刺身にして、アラはお前さん(魚金)にやるといっ たのだという。 岩田の旦那は、鯛全体の値を払ったのだろう、もとは知って いるんだと、熊がいい、魚金は、やるよ、持ってきな、となる。
当り鉢から頭と尻尾が出ている鯛を見て、うまい酒を買ってきた兄弟分が、 隣の猫に身を盗られ、アラだけはあると聞いて、あらためて刺身を買いに行く。 その間に酒をみんな飲んでしまった熊が、酒瓶を猫が後足で蹴ったことにする。 隣のかみさんが、それを聞いて激怒する。 兄弟分が隣に文句を言いに行く というのを、熊が止めると、「なーに、猫に謝って来る」というのが東京のサゲ だ。 上方では、猫が話を聞いて、神棚に飛び上がって手を合わせ「悪事、災 ニャン、のがれさせたまえ」というのだそうだが、それも面白い。
志ん輔のは、けっこう楽しめたものの、少し複雑にしすぎたような気もした。
鯉昇の「てれすこ」 ― 2008/09/02 07:11
ニヤッと笑って、例の「はっきりしない」天候と自分の、それ故快適な今日 この頃を話し、異常気象について、落語界もその一環なのか、ブームだといっ た。 高座を下りると、身につけているものを下さい、などと言われる。 差 し上げられそうなのは手拭と扇子だけ、手拭は汗を拭いているのでダメ、扇子 は噺家の魂、命だ。 と、いうと、千円札を出そうとするから、それじゃあ、 どうぞ。 安い魂だ、と。
遠州、浜松の出だが、浜松は最近フグが増えた、大漁で、下関から団体が来 たそうだ。 猿も多く、40頭ぐらいで現れる。 横断歩道を渡る時、その半分 が手を上げて渡った。 子供たちが渡るのを見ているのだ。 畑の野菜をかじ る。 おばあさんがカボチャを取ったのを見ていて、持って行く。 両脇に抱 えて帰ってきたら、二つずつ無くなるようになった。 それで、猿にはリヤカ ーを引っぱる姿だけは見せないようにしている。 鉄砲で撃とうとすると、猿 が命乞いをする、手を合わせて…。 教会の裏山の猿は、十字を切る。
「てれすこ」は、ある漁場で珍魚が上り、名前がわからない、奉行所に持ち 込まれる噺。 百両の報奨金で、名前を知っている者を募ると、茂平が「てれ すこ」だと申し出、奉行は渋々百両を出す。 一計を案じた奉行、珍魚を干し て、再び報奨金百両の高札を掲げる。 茂平が再びやってきて「すてれんきょ う」というのを、捕えて、死罪の判決を下す。 慈悲で望みを一つだけかなえてやるというと、女房子にあわせて欲しい、と。 「火物断ち」(火を使ったも のを食べない)してやつれた女房に、「子供が大きくなっても、イカの干したも のを、けしてスルメとだけは言わせるな」と言う。 「火物断ち」、鯉昇も前座 時代に一年間、ガス、電気、水道を止められた、という(随所にあるそういう クスグリが可笑しい)。 奉行は、知恵があるな、世の中の役に立つだろう、言 い訳立った、と許して、百両も下げ渡す。 スルメ一枚の言い訳と、奥方の「火 物断ち」で助かった。 奥方は、乳が出ないので、ソバの粉をどろどろにした ものを食べていた。 そんなソバでは、手討ちにならねえ、という落ち。
さん喬の「もう半分」 ― 2008/09/03 07:20
さん喬は「もう半分」の舞台を、永代橋の橋詰、寒い雪の日に設定した。 永 代橋という憶えがなかったので、志ん生の速記を見ると、千住の小塚ッ原、橋 は千住大橋、ついでにさん喬でほうれん草のおしたし、芋の煮っころがしにな っているツマむものは、紅生姜、鉄火味噌、ついでに一膳飯を売ると、なって いた。 「もう半分」は志ん朝もやったが、だんぜん兄貴の馬生の方が、陰気 さが柄に合って、怖かった。 そういえば、馬生も芋の煮っころがしだったよ うな気がする。
さん喬のは、計算が細かい。 一杯十六文の酒が、半分ずつ四回飲んで三十 二文、それにお芋で四十二文、酒好きで意地汚い爺さんは、相客が帰り仕舞の 客になったのに、「もう半分」追加して五十文を払う。
さん喬では、途中まで居酒屋の夫婦の年齢がわからなかった。 問題の五十 両で蔵前に店を買って繁昌し、夫婦は奥でぼんやりしている日もある暮しにな って、ヤヤが出来たよ、よかった、でかした、となる。 志ん生だと、事件の 当日、おかみさんは今日生まれるか、明日生まれるか、という身体だった。
真夜中、エンジ(遠寺、煙寺とも書くらしい)の鐘がゴーン。 寝ていた赤 ん坊が、ひょいと立って、ツツーッと歩き、行灯の蓋を上げて、油の皿を口へ 持っていって、グビリ、グビリ飲む。 子供がひょいとこちらを見て、「ヘッヘ ッヘ、もう半分」。 八月に雪の日にした仕込みも効いたのか、柄の馬生にくら べ、柔和なさん喬だが、ゾーッとするほど怖かったから、上出来だったという べきだろう。
同年生れの宮崎駿監督 ― 2008/09/04 07:17
宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』を観た。 しばらく前にNHK「プロフェ ッショナル」の特集で、この映画を制作中の監督に密着したのを見た。 監督 が同じ1941年の生れだと知った。 ヘビースモーカーで、亡き母への思いの 強いこと、その思いの延長で、人を楽しませるために映画をつくっていること も知った。 『ポニョ』の宗介が通う保育園“ひまわり園”と、隣の母リサが 勤めるデイケアセンター“ひまわりの家”には、グラジオラスが咲いている。 私は〈父母の戦後の暮しグラジオラス〉という句をつくったことがあった。
宮崎駿さんは、絵コンテを描いて、物語をつくり、各場面のもとになるスケ ッチを描いて、それに基づいてスタッフが描いた一枚一枚に全部手を入れるの だった。 今回は手描きにこだわって、膨大な数(17万枚だとか)の絵が描か れた。 ある男性スタッフの描いた絵を見て、「この鳥は飛んでいない」、「よく 見て、気持を込めて描いているのか。けんかを売っているとしか思えない」と、 叱っていた。 エンドロールに、この映画にかかわった400人余とかが、五十 音順で平等に流れた。 宮崎駿も、久石譲も、長嶋一茂も、読売新聞やローソ ンも。 あの男性スタッフの名前もあるのだろうか、と思った。 スタジオジ ブリは、スタッフのための保育園をつくったそうだ。 仕事は厳しいが、家庭 的な雰囲気の会社なのだろう。
「宗介んとこイクー」と、津波に乗って、というより、津波の上を走って、 ポニョが帰って来る。 落語の香具師が売る「海の上を歩く方法」の虎の巻、 「右の足の沈まない内に、左の足を出す」を思い出した。 宮崎駿監督は落語 好きに違いない。
フジモト・母なる海・デボン紀 ― 2008/09/05 07:16
『崖の上のポニョ』は、子供には難しいだろう。 大人にも、難しい。 プ ログラム(最近はパンフレットという)で、分かったことも多かった。 まぁ、 その年代なりの楽しみ方をすればいいのだろう。
かつて人間だったというポニョの父「フジモト」は、ジューヌ・ヴェルヌの 『海底二万リーグ』(私が子供の頃は、二万哩(マイル)といっていた)の、ネ モ艦長のノーチラス号に乗っていた唯一のアジア人の名前。 半分人間、半分 海の男、つまり半魚人だ。 海なる母グランマンマーレ(観音様。今、渋谷 Bunkamuraに来ているテート・ブリテンのミレイの「オフィーリア」のイメ ージだそうだ)と出会い、恋に落ちた。 その子、ブリュンヒルデ(ワーグナ ーの楽劇「ワルキューレ」の空駆ける乙女たちの長女の名)が、ポニョの本名 だ。
フジモトは、サンゴ塔という理想の海洋農場で、魔法の力を集めて、生命の 水を抽出し、貯蔵している。 クラゲに乗って家出したさかなの子・ポニョは、 崖の上の一軒屋に住む5歳の少年宗介に助けてもらう。 父に海に連れ戻され たが、宗介の血を舐めて、半魚人になったポニョは、いもうと達の力を借りて、 父の魔法を盗み出し、ふたたび人間世界を目指す。 危険な生命の水がまき散 らされた。 海はふくれあがり、嵐が巻き起こる。 町がまるごと水中に没す るのは、地球温暖化による海面の上昇そのものだ。
「デボン紀」や、その頃生息していたという甲冑魚「ボトリオレピス」や両 生類の直接の先祖かその仲間「ディプノリンクス」が出てくるのも、宮崎駿さ んの趣味なのだろう。
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