戦後のタケノコ生活の中で、小児結核に罹る2008/10/30 07:13

 「亡き父野口冨士男と母直子に捧ぐ」と、平井一麥さんの『六十一歳の大学 生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』の巻頭にある。 そして、 1993年に母と父を亡くして15年たった今、痛切に父や母に会いたい、話した い、と思っている、という言葉で、この本は終わっている。 それほどまでに、 父母に対する思いが強い。

 平井一麥さんは、父上が29歳だった昭和15年12月23日の生れで、その名 はアンドレ・ジイドの『一粒の麥もし死なずば』からつけられた。 昭和17 年に弟の二生(つぎお)さんが生れるが、すぐに亡くなり、一麥さんは一人息 子として大切に育てられる。 野口冨士男さんは、昭和19年9月に33歳で召 集され、海軍入隊一週間ほどで病人状態となり、敗戦後すぐ、栄養失調症とい う思考能力の落ちるやっかいな病気をもって、家族が疎開していた埼玉県越谷 に復員した。 ローソクに、電球がたった一つの七坪に親子三人の暮し、なか なかいい作品は書けなかった。

 昭和22年、一麥さんの小学校入学のこともあり、東京早稲田の百坪の敷地 に十五坪の家を建てて戻る。 作品も書けず、出版社の状況も悪かった。 お 坊っちゃん、お嬢さん育ちだった父母が、小麦やジャガイモ、その他いろいろ な野菜の畑をつくり、売り食い貧窮のタケノコ生活を続ける中、小学3年生の 一麥さんが、絶望的な小児結核に罹る。 当時、輸入が始まったばかりで、べ らぼうに高価だったストレプトマイシンの注射で、一命をとりとめる。 20本 で32,000円、税務署の見積り査定年収が20万円という時だ。 家計に致命的 なダメージとなったが、この注射がなければ、今日の私は存在していなかった、 と一麥さんの感謝の念は深い。