こおろぎの歌―作家という業2008/11/01 07:14

 その和田芳惠さんと、野口冨士男さんが、13年前に書いた「等々力短信」に 出てきていたので、その全文を引いておく。 ここに出てくる江國滋さんは 1997年8月10日に、吉田時善さんは2006年10月21日に、亡くなった。 皆 さん、作家の業というものを感じさせる方々だった。

こおろぎの歌 <等々力短信 第697号 1995.2.15.>

 作家の吉田時善さんといっても、寡作の人だからご存知ない方が多いかもし れない。 筒井康隆さんの「断筆中」が表紙の『波』2月号に、佐伯一麦さん でさえ初めて接する名前だと書いている。 「等々力短信」500号の会で、 江國滋さんが新潮社の編集者時代から、吉田さんとお付き合いのあったことが わかった。 会の後、お二人はご一緒に帰られたが、「久し振りに痛飲」とい うお手紙が、吉田さんから来た。 読売新聞の「等々力短信」紹介記事を切り 抜いておいた吉田さんに、銀行のPR誌の原稿を頼まれて、私が吉田さんの六 本木の編集工房を訪ねたのは、昭和56年のことだった。

 その工房は今度吉田さんが雑誌『新潮』2月号に書かれた「こおろぎの神話 -和田芳惠私抄」にも出て来る。 戦争直後の昭和22年の初め、吉田さんは D書房に入社した。 D書房は、草野心平『定本・蛙』、森田たま『もめん随 筆』、織田作之助『夫婦善哉』などの単行本を出し、少女雑誌『白鳥』、総合 文化雑誌『プロメテ』に加えて、新しく文芸雑誌『日本小説』を発行するため に、かつて新潮社の雑誌『日の出』の編集長だった敏腕の和田芳惠を迎えた。  後に28年を和田とともに過ごし、「こおろぎの神話」の核となる回想をす る長島静子も、この会社の経理にいた。                 

 雑誌『日本小説』は好調な売れ行きを示すが、社長との思惑の違いがあって 和田経営の別会社となり、やがて昭和24年10月には350万円という当時 としては巨額の借金をかかえ、にっちもさっちもいかなくなった和田は高利貸 から身を隠す決心をする。 帳簿付けを手伝っていた静子は「わたしも、ご一 緒しては、いけませんか?」といい、以後先妻の子が二人いて、何かと女との 問題の絶えぬ和田と暮すことになる。 留守中、静子のものでないヘアピンが 落ちていて、彼女のと違う畳み方で布団が押入に押し込まれていた。 死ぬと 騒ぐその女が中絶する金も、静子が工面した。 「それで、おまえは、我慢で きるのだろうか」という和田に、「やれるだけのことを、やってみるよか、仕 方ないでしょう」と、静子はこたえる。 和田芳惠は、肉体的にも、精神的に も付き合いのあった女たちを触媒にして、樋口一葉という一人の女の像を組み 立てた。 周りの人々を傷つけ、自分も傷つきながら、「一字ずつ象嵌するよ うに」良質の私小説を書き残し、晩年になって直木賞を始め数々の賞を得た。

 野口冨士男は弔辞で「世には歌わんがためにわれとわが身の心臓を食らう人 間の蟋蟀(こおろぎ)もいる」と述べたという。 平成元年には既に執筆中と 聞いていた、今回の吉田時善さんの三百枚の長編も、一字ずつ象嵌するように 書かれている。