志ん輔の「文七元結」 ― 2008/11/26 08:01
トリは志ん輔、暮の噺をするので、マクラで師志ん朝の大晦日の話をした。 矢来町の師匠の家には、高田馬場から早稲田までバスに乗って行く。 志ん朝 は弟子を二、三人連れて、早稲田馬場下の穴八幡へお参りに行き、一陽来復の お札(?、実家も貼っていたから、ぼてっとした紙包みなのを知っている)を 受けて来る。 お湯屋へ行き、紅白など見て、零時ちょうどに、お札を決めら れた方角(恵方)にピッと貼る。 師匠は、そういうことはきちんとやる性格 だから、ピッピッピッポンの時報に合わせて貼るのだが、どこの局がいいだろ うかというから、それはNHKでしょう、と志ん輔が言った。 紅白が終わっ て、「行く年来る年」、あれは境目のない番組なのだった。 三分過ぎて、糊は 乾き、あわてて貼ったお札が、ポトッと落ちた。 以来、志ん輔の提案は、こ とごとく通らなくなった、という。
江戸、師走、半ば、「お久がいなくなっちゃった」と、「文七元結」に入る。 十七になる娘のお久がいなくなって、左官の長兵衛の家が大騒ぎしているとこ ろへ、出入りの吉原は佐野槌の番頭藤助(とうすけ)が、おかみさんが今すぐ 来て頂きたいといっていると、迎えに来る。 長兵衛は、ばくちでこさえた借 金で、にっちもさっちも行かなくなっていて、法被一枚しかなく、腰巻もない 女房の着物を着て出かけ、女房は風呂敷で紋付の腰巻姿になる。
娘のお久が吉原に身を沈めて、懐にした五十両を、吾妻橋から身投げして、 どうしても死ぬのだという若者に、ぶつけて逃げる。 ご存知の「文七元結」 を、志ん輔は実に丁寧に語り、じっくりと聴かせた。 感動ものだった。 志 ん輔も充実の季節を迎えているのだろうが、噺自体も気持よいことが、「紋三郎 稲荷」のあとだったので、よくわかった。
ささいなことで、ご愛嬌だが、志ん輔にはケアレスミスがある。 最初お久 がいなくなって「“お久さん”も、探しに行ってくれている」。 鏝持たしたら、 お前の「“左”に出るものはない」
劇場を出たら、隣にいた友人(一人暮し)の息子さんが追いかけて来て、お 礼をいい、「オヤジをよろしくお願いします」と、お久みたいなことを言った。 「文七元結」を聴いた良い気分が、倍になる思いがした。
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