「三の酉」の句会 ― 2008/12/01 08:04
29日は「三の酉」だった。 枇杷の会は、日比谷線の三ノ輪駅で集合、浅草 界隈を吟行した。 露店がぎっしり並ぶ中、まず竜泉三丁目の一葉記念館へ。 平成18年に改築された新記念館は、近代的で明るく立派、樋口一葉の生涯と はかけはなれて、あっけらかんとしている。 企画展「吉原つむぎうた~一葉 が見た吉原」の開催中だった。 それで鷲神社への道中、吉原地区を見学。 地 図で見るとわかるが、この地区だけ碁盤目の方角が西に45度ずれているのは、 どの店で寝ても、北枕にならない為だったそうだ。 大門跡のところまで行く。 吉原開所350年とある。 慶應義塾より200年古いが、天皇陛下はいらっしゃ らないだろう。 吉原神社に寄り、句会までの間、自由行動となる。 快晴、 小春日、土曜日と重なったせいか、鷲神社の「三の酉」は押すな押すなの人出 で、提灯の見える所から入り口に達するまでに、小一時間かかる。 酔歩さん お馴染の、六区に近い「響屋」での句会に出したのは、次の七句。
観音の裏手の闇や三の酉
うまいものにことかかぬ町三の酉
切山椒ぎんなんべつたら酉の市
不景気に負けるものかと酉の市
冬晴れの吉原ビジネスホテルかな
空抜けて吉原神社枇杷の花
行列や忍の一字の三の酉
「三の酉」句会、結果と選句 ― 2008/12/02 07:21
それで句会の結果だが、七句選んで、七句採ってもらったから、まあ収支ト ントンだったが、英主宰の選に四句が入ったので、御の字という気分になった。
主宰の選評も、それぞれに嬉しかった。 〈観音の裏手の闇や三の酉〉…三 の酉は、あさってから師走というそんな感じの頃。観音様の裏の一角の暗い、 寂しいのを詠んでいるが、印象として吉原も匂わしている。
〈切山椒ぎんなんべつたら酉の市〉…お弁当のように沢山詰め込んだ。酉の 市の、一種の猥雑さ、もっと北でやっていたのをバクチで取り潰しになって、 現在地に来たと聞くような、怪しげなところ、そんなもんさという感じが出て いる。
〈冬晴れの吉原ビジネスホテルかな〉…面白い。吉原のビジネスホテルなん て不思議な所に泊まった人は、よく眠れないだろう、そして晴れた朝を迎えた。 これでぎりぎり、句になっている。句になるものに対する鼻というか、嗅覚。
〈空抜けて吉原神社枇杷の花〉…すかんと抜けた冬の空。「空抜けて」がいい、 「抜ける」という言葉が吉原と近い匂い、ニュアンスを持っている。
ほかに〈観音の裏手〉を酔歩さん、〈空抜けて〉を孝治さんと貴聖さんが採っ てくれた。
私の選句は、次のとおり。
冬菊や苦界の果の殃死の碑 英
遊廓の名残の門に夕日差し 孝治
江戸中の夜店集めて酉の市 同
押し寄せる人の思ひや酉の市 同
擦れ違う路面電車や冬日和 啓司
楚楚と咲く吉原神社枇杷の花 同
熊手持ち馬券売場に立寄りぬ 祐之
佐高信さんの「平熱の思想家、福沢諭吉」 ― 2008/12/03 07:08
11月26日は第687回三田演説会、佐高信(さたか まこと)さんの「平熱 の思想家、福沢諭吉」を聴きに行った。 三田演説館では満員が予想されたの で、少し早めに出かけたら、北館のホールに会場が変更されていた。 佐高信 さんは、『週刊金曜日』の発行人・編集委員を務める辛口の評論家、『夕刊フジ』 の連載「福沢諭吉紀行」を最近『福沢諭吉伝説』(角川学芸出版)という本にし た。
ここに立っているのが場違いな感じがする、と佐高さんは言う。 慶應の雰 囲気にはずっとなじめず、まっすぐ卒業した気がしない、と。 昭和20年山 形県酒田市生れ、昭和42年法学部法律学科卒業、峯村光郎ゼミ。 駒込にあ る荘内の学生寮にいたが、三田にはあまり来ないで、ほかの大学に潜り込んで 東大の丸山真男さんなどの講義を聴いていた。 郷里との関係で『西郷隆盛伝 説』を書き、つぎは何を書こうかと思っていたら、同窓の産経新聞住田良能社 長に「福沢を書く気はないのか」と言われた。 福沢創刊の『時事新報』の看 板を預かっている産経新聞として、義塾創立150年に何らかの顕彰をしたいと いう気持があったらしい。 どこから書こうかと思っている時に、中津の福沢 旧邸近くの豆腐屋に生れた、旧知の松下竜一と、彼が書いた福沢の又従兄弟増 田宋太郎の伝記『疾風の人』(朝日新聞社)を思い出した。 それは絶妙の思い 出しだった。
佐高さんは、亡き松下に案内されて、福沢旧邸も見たことがあった。 増田 宋太郎は西洋かぶれの福沢を暗殺しようとした皇室や国学の信奉者で、最後は 西郷隆盛に従って西南戦争で亡くなっている。 松下によれば、福沢は太平洋 戦争中、「鬼畜米英」の思想家で、福沢旧邸の記念館は荒れ果てていた。 一方、 国粋主義者の増田はもてはやされていた。 それが8月15日の敗戦で、引っ くり返る。 その「シーソーゲーム」で書ける、と思った。 時代と無関係な思想はあり得ない。 福沢は、時代が狂気に満ちれば満ちる ほど、それに排斥されてしまうほどのエネルギーを秘めた、光を放つ「平熱の 思想家」なのだと、気付いたというわけだ。
福沢と馬場辰猪・北里柴三郎 ― 2008/12/04 07:15
佐高信さんは、この間亡くなった筑紫哲也さんが『週刊金曜日』の講演で一 緒に広島へ行った時、「女性はショートヘアと、ロングヘアのどちらが好きです か」という女性の質問にまで、丁寧に答えていた話をして、福沢もまた、ファ ッションを時代の移り変わりに結びつけるような、細かいところまで眼が行届 いていた、端的に言えばプラグマティストだった、と言う。 田中王堂は「小 額紙幣にくずせないような思想はいかがなものか」といったが、福沢の思想は 小銭まで意識して、ほり込んだものだった。
『夕刊フジ』の連載は、原稿用紙3枚足らず(「等々力短信」とほぼ同じ) の中に、「何か」を入れて、その日その日を面白くしないといけない、厳しいも のだ。 新味を出す必要がある。 書き始めて、途中で予想とは違うものにな るほうが、いいものになるようだ。 日々不安なのだ。 が、つぎつぎに書く べきことが出てくる展開になった。
馬場辰猪。 福沢は、弟子の馬場辰猪がラディカルになっていっても、見捨 てなかった。 我が身に危険が及ぶ恐れがあったのに、馬場を抱え込むところ に、福沢の偉さがあった。 高熱を抱え込む平熱。 強烈な教育者だった。 北里柴三郎。 北里病院に入院中のゼミの仲間、政治記者でなく政治話者、 ヒゲの岸井成格(毎日新聞元論説委員長、慶應高校で福沢研究会にいた)がヒ ントを与えてくれた。 細菌学をコッホに学んで帰国したのに、東京帝国大学 の先輩の誤りを指摘して、行き場を失っていた北里を、福沢は徹底的に支援し た。 それは官に対する民、朝に対する野のモデルケースで、民の伸長なくし ては、日本に民主主義は根付かないと考えた福沢の、いわば思想の実践だった。
勲章と脱亜論と ― 2008/12/05 07:15
『政財界メッタ斬り』(毎日新聞社・2005年)という本もある佐高信さんは、 財界人に蛇蝎の如く嫌われているが、経済評論家と名乗っているから、経営者 の講演会に呼ばれることもあるという。 まず、バンとかます。 「株価は5 万円になる」「金本位制になる」と活字にした長谷川慶太郎のデタラメを見抜け ないようではダメ、経営者を辞めなさい、と。 そしてシメで、福沢が勲章を 拒絶した話をして、勲章を拒否した人に偉い人がいると、止めを刺す。 松永 安左ェ門、石田禮助、木川田一隆、中山素平、伊東正義。 民間人の誇りにか けて、貰ってほしくない。 勲章は業界が役所に申請してもらうから、役所に は楯突けなくなる、民間支配の道具である。 福沢は、官尊民卑は直らないと いうことを見通していたのではないか。 慶應に学んだ者は、勲章を貰うな、 と言いたい。 貰ったら、三田会除名とか、いかないものか、と。
福沢を扱って、脱亜論に触れないわけにはいかない。 (1)平山洋さんが 『福沢諭吉の真実』で行なった指摘。 (2)福沢が朝鮮の独立を目指した金 玉均を徹底して援助した事実。 それによって福沢の身を危うくなったにもか かわらず。
佐高さんは、学者でないから、文献だけで判断したくない、実際の行動から 福沢を判断したいという。 福沢は、行動においても脱亜論者であったのか。 現実のなかに生かされての思想である。 封建思想をひっくり返そうとした改 革者であったからこそ、絶えず暗殺の危険にさらされていたのだ。
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