戦争は脅しで、市場の確保が目的2009/01/01 08:03

 12月25日の「等々力短信」第994号「幕末外交の真相」に、二、三の方か ら質問が来た。 スペースがなくなって、萩原延壽さんが、内乱がつづいたと しても、外国勢力による干渉の危険はなかったと、はっきり言えるとし、外交 文書に通じていた福沢もまた「外国勢力による干渉」の危険をまったく否定し ていた、その理由を書けなかったからだ。

 萩原延壽さんは、英国外務省の立場は、清国の内乱に干渉して苦い経験をし たという理由もあって、日本の内乱にたいしては、中立、つまり、介入しない という態度、これははっきりしていた、とする。 元治元(1864)年の四か国 連合艦隊による下関砲撃の場合がよい例で、これを決定したのはパークスの前 任者のオールコックだが、報復措置としては過剰にすぎる、というのがロンド ンの意見で、オールコックがまもなく北京公使に転出するのは、この失策が原 因のひとつであるという説もある。

英国の出先、公使のパークスは、戦争をやるぞやるぞと脅かしていたけれど、 その本当の狙い、すなわち本国の外務省の意向は、いかに安定した市場を確保 するかにしぼられていた。 つまり貿易だけが目的だったというのである。

福沢の著作、すべて教科書に使用禁止2009/01/02 08:13

 朝日文庫の『瘠我慢の精神』に、もう一つ興味深い発言があった。 「『瘠我 慢の説』を読む」の藤田省三さんの部分で、幕臣であった福沢自身の明治政府 の下での出処進退の問題に言及している。 福沢が『学問のすゝめ』の中で「私 立」ということを言い、政権の外に立って文明を押し広めるために努力すべき であると言ったのには、ベストセラーの著者としての経済的裏付けがあったこ とが示唆されている。 だから福沢は強かったと藤田さんは言う。 そして、 こう続けるのだ。

 「初めのうちは『学問のすゝめ』が何百万部出たかわかりませんが、海賊版 まで出た。それが彼の収入そのものだったわけですけど、明治十三年に、政府 が統制に切り替え、福沢の著作がすべて教科書として使用禁止とされてからは 全然売れなくなった。そうしますとたちまち財政難に陥って、ほうぼう福沢は 金策に走り回ったりする。しかし福沢は決して「私立」の原則を崩さなかった。」

 この話は知らなかった。 明治14年の政変以前から、福沢に対するこうい う圧迫は始まっていた訳で、さらに政変が決定的な追い討ちとなった。 政変 は門下生たちの境遇にも大きな影響を与えたから、平気を装ってはいたが、福 沢の受けた衝撃の大きさとその苦悩はかなりのものであったろう。

幕末の英仏米事情2009/01/03 08:25

 「なぜ当時日本は列強の餌食にならなかったのか」という質問に対する答え として、1日に書いたことを、少し広く詳しく見ている文章が、石井孝さんの 『明治維新の舞台裏 第二版』(岩波新書)の「おわりに」にあった。

 「明治維新の政局が相対的に自主的な展開をとげたのは、まずさきにあげた イギリスの対日政策によるところが大きいと思う。当時、「世界の工場」を誇っ たイギリスは、自由貿易主義を貫徹することによって、もっぱら商品の力で世 界を支配するのを理想とした。そして産業資本の利潤を減らすことになる軍事 費や植民地経営費は、できるだけ削減する方針がとられた。このようなイギリ スの世界政策がもっともよく展開されたのは、1860年代の後半から70年代の 前半である。その時期はあたかも、明治維新の動きがクライマックスに重なる ことに注目しておきたい。このほか、東アジアにおける資本主義列強の圧力は、 市場価値の大きい中国に集中され、市場価値においては中国の比ではないとみ られた日本では、中国にくらべて外圧が緩和されていたという事情も考えなけ ればならない。」

 公使のロッシュが幕府側に肩入れしていたフランスは、どうか。 幕末の重 要な時期、外務大臣が交代し、ロッシュの幕府支持政策を否認し、対英協調に 政策を百八十度転換した。 それには次のような原因があった。 メキシコ干 渉に失敗し、ルクセンブルグ併合の野心は、プロシャの反対によって挫折する というように、外交的失敗が続き、プロシャとの戦争(明治3(1870)年~4 (1871)年)の機運も熟していた。 国内的にも第二帝政が下り坂に向ってい た。

 アメリカは、南北戦争の時期に重なっていた。 リンカーン大統領が奴隷解 放を宣言したのは文久3(1863)年、大統領に再選されたのが元治元(1864) 年、暗殺されたのは慶應元(1865)年のことだった。

パークスが教えた「局外中立」2009/01/04 08:18

 石井孝さんの『明治維新の舞台裏 第二版』に、こういう話がある(この本で は「旧幕府」と「天皇政府」で書かれている)。 薩藩討伐を名目に大坂より京 都に攻め上ろうとした幕府軍と、薩長を中心とする官軍(新政府軍)が衝突し た鳥羽伏見の戦が開始された慶應4(1868)年1月3日、幕府はこの戦争を薩 摩の反乱とみなし、武器を「日本政府」(幕府)以外のものに売ること及び開港 場のほかに寄航することを禁止する条約上の規定を、各国国民が厳守するよう、 各国代表に要求した。 もしこの徳川政権を日本の合法政府とし、新政府を叛 徒とする見方に立った要求が承認されれば、新政府はまったく国際的合法性を 失うことになる。

 1月11日、神戸で備前(岡山)藩兵が、その行列を横切った外国人を攻撃す る事件が起き、同藩兵と英・米・仏軍の戦闘となり、外交団は神戸居留地を軍 事的に占領のもとにおいた。 イギリス公使パークスは、各国代表とともに強 硬な姿勢を取りながら、裏で新政府側に外交的進路を指示した。 天皇が将軍 に代って政権をとる旨の勅書を携えた勅使東久世通禧(みちとみ)が、兵庫で 各国代表と会見、その態度は完全に各国代表を満足させた。

 パークスはまた、「局外中立」というものがあることを新政府側に教えた。 天 皇政府が徳川幕府に宣戦を布告して、これを外国代表に公布すれば、両政権を 交戦団体として、そのおのおのに武器の供給を禁止させる国際法上の「局外中 立」がある、と。  新政府の要請により、1月25日、イギリスが「局外中立」の布告したので、 ロシア、オランダ、アメリカなども追随し、このため旧幕軍に軍事顧問団を派 遣しようとしていたフランスも、「局外中立」の立場にたたざるをえなくなった。  このため軍事顧問団のブリュネ砲兵中尉などは、のちに五稜郭の戦いで旧幕軍 に参加するため顧問団を脱走、軍事裁判にかけられたりしている。(松本健一著 『開国・維新』)(←忘れていたのだが、これは<小人閑居日記 2003.1.14.>「勝 敗の分れ目「局外中立」」に書いていた。)

これによって新政府はようやく、最初に書いた幕府側の外国に対する通告に 対抗することができた。 新政府は、パークスの支持と指導で着々とその地位 を高めていったのである。

勝海舟もパークスの力を利用2009/01/05 07:09

去年の3月から半藤一利さんが、慶應丸の内シティキャンパスで、勝海舟の 話をするというので、その時は聴いてみたいと思いながら、忘れていた。 そ の「半藤一利 史観 『海舟が見た維新・明治』」~歴史作家 半藤一利が語りお ろす、もうひとつの明治維新史~という12回にわたる特別講座が、『幕末史』 (新潮社)という本になった。

暮に本屋で見つけたので、パラパラめくっていたら、勝海舟と「万国公法」 の話が出てきた。 慶應4(1868)年3月15日に江戸城総攻撃が予定されて いた時期である。 『明治維新の舞台裏』にもあるが、勝海舟もまたパークス の力を最大限に利用した。 勝海舟はアーネスト・サトウを通じて、パークス に意志を通じていた。 13日に西郷の命を受けてパークスに江戸城攻撃の了解 を得に行った東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎は、慶喜に過酷な処分をするこ とと、横浜も混乱し貿易に影響する戦争に、強硬な反対を表明されてしまう。  『幕末史』で半藤一利さんは、3月27日に勝海舟が単身横浜のイギリス公使館 へ行き、朝から夕方まで待たされても、悠然と待ってパークスに面会、その人 柄と誠実さ、胆力から信頼を勝ち得たエピソードを語っている。

翌28日(『明治維新の舞台裏』では4月1日)、西郷は横浜のイギリス公使 館でパークスに会うが、パークスに慶喜とその支持者たちに寛大な処置を取る ことを確認される。 西郷はパークスに「万国公法」上も自分たちの処分案が 非難されることはないか尋ね、非のうちどころがないと褒められている。 西 郷は、パークスのかげに勝海舟が手を回していることを察し、幕府側こそ「万 国公法」において罪ある訳で、幕府がこれ以上外国人へ余計な依頼をすること はないだろうなと、釘をさしている。 半藤さんは西郷が、「万国公法」(国際 法)が国内戦にも及ぶと考えていたことは、面白いと言う。