桂米團治の「親子茶屋」 ― 2009/02/02 07:18
桂米團治、縞の羽織に、黒い着物で、ニコニコと出て来た。 10月4日の襲 名披露、南座は何時から小米朝が米團治になるのか、細かいことにこだわった という。 劇場に入った時か、舞台に出た時か、口上で頭を上げた時か。 日 の出とともにだろうということになって、どこの日の出か、大阪のだろうと、 南座がインターネットで検索したら、午前5時55分、それで五代目……。 五 の倍数で「ヘぇ」とならなければならないか、とニャッと笑って、米團治にな っても性格変らんな、と。 この明るさが、米團治の身上だ。
全国30か所を回る襲名披露興行の、20数か所で人間国宝・米朝が並んでく れた。 たいへんな移動だった。 松江から富山の移動、JRだけしかなく山陰 本線と北陸本線で8時間かかる。 関西経由の飛行機もなく、米子の空港から 羽田に来て、羽田から富山へ飛ぶことになった。 それが羽田着30分遅れ、 乗り換えに3分しかない、マイクロバスで10人が富山行きまで滑走路をつっ 走る。 人間国宝は「ここはどこや」、83歳が螺旋階段でフーフー上がらなけ ればならなくなった。 荷物用のエレベーターがあったが、人間はダメと断わ られた。 「この人はお荷物…」
「親子茶屋」は、苦虫とニコニコ、米朝・米團治親子を思わせる噺だ。 昔、 米團治が祗園で遊んでいたら、米朝が来て、大慌てで隠れたことがあったそう だ。 米團治が演じるのを見て、その踊りの手の美しいのに感心した。 見台(平 らな小机)と膝隠し(衝立)がなかったのは、このためだったのだ。
子供の頃、遠い親戚が宗右衛門町で料亭をやっていた。 地唄舞に関係のあ る家だった。 当時「そうえもんちょう」と言っていたように思うのだが、最 近はもっぱら気取ってか「そえもんちょう」というのを聞く。 それが米團治 は「そうえもんちょう」と言って、「親子茶屋」の舞台にした。 『米朝上方落 語選』(立風書房)を見たら、米朝は解説にそろそろ難波新地から宗右衛門町に 戻してやるべきかと考えている、と書いていた。
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