教育政策についての福沢の批判 ― 2009/02/12 07:44
私に明治の教育制度の変遷についての知識がないので、明確ではないのだが、 米山光儀さんはこんな背景を話した。 国民皆学を目ざした「学制」はうまく いかず、明治12年に教育令が出たが、それも一年しか続かなかった。 明治 17年に森有礼が文部省に入り体育など集団訓練を重視するが、22年に暗殺さ れ、23年の教育勅語の発布となる。
米山光儀さんはそうした背景をもとに、福沢の教育政策批判を取り上げた。 福沢は明治12年の『福澤文集二編』「小学教育の事」で、8年制の小学校など 実際に学ぶ人はいない、せいぜい1年、国民の経済力に対応した教育制度をつ くるべきだと、漸進主義の考えを述べた。 明治14年の政変以後、教育政策 が知育から徳育へと転換したのに対しては、福沢は明治15年の『徳育如何』 で、その儒教主義を批判した。
福沢は明治22年の「文明教育論」で、「教育の文字はなはだ穏当ならず、よ ろしくこれを発育と称すべきなり」と、「教育から発育へ」という考えを述べて いる。 米山さんは、この「発育」を今の「学習支援」のようなものだとした。 福沢はeducationの本来の、人の能力を導き出すことを言ったのだろう。
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