34年前の「短信」創刊号2009/02/06 07:09

 たまたま、ある人に「等々力短信」を始めたきっかけについて訊かれた。 「広 尾短信」として創刊したのは、1975(昭和50)年2月25日だったから、この 25日でまる34年になる。 まあ、長いだけが重要ではないのだが…。 また 父を引合いに出せば、何十年お世話になっていますと従業員が自慢すると、何 年いたかではなく、何をやったかが問題だ、と叱っていた。

 創刊当時、33歳だった私は、夏目漱石や福沢諭吉の手紙の面白さを知って、 なんとか手紙の楽しさを復活できないか、こちらが出せば、少しは返事もくる だろう、と思ったのであった。 情報を一方的に受け手として読むだけでなく、 素人なりに発信することも大切ではないか、とも考えていた。  以下は「広尾短信1 1975.2.25.」の全文である。

 血液B型はおっちょこちょいだとか、謹賀新年でやめときゃいいものをくど くどと書き、構想は雄大だが実行が伴わないのか、英会話はレコードとテープ と新品同様のが揃って「マスターした」と称し、休刊中の編集雑誌は二種類、 しかも一つは創刊号をだしただけという体たらく、なのにまた、こんなものを 始めて先輩友人諸兄を悩ます次第。

 漱石、諭吉を引合いに出すまでもなく、昔の人は実によく手紙を書いた。 今 来るのはDMばかり、ハガキでどれだけのコミュニケーションができるのか実 験のつもり。

 日頃ものを考える訓練の必要を感じる。 書くことがその有力な手段で、読 書見聞の記録も書きとめておけば歩留りのよいことはわかっている。 字数の 制約の中で何かを正しく伝えようとすれば、簡潔な文章の練習にもなる。 ご 迷惑でも、いつまで続くか楽しみに一分間のおつきあいを願います。

ワイシャツのソデの長さ2009/02/07 08:25

 古い短信を読んでいたら、もう一つ歯を磨く話が出て来た。 ちょっと出か ける予定があって、手抜きが続くが、それを紹介する。 ハガキの時代は、字 数の制約もあって、表題がなかった。 ウソみたいな話が書いてあるが、私が 創作した憶えはない。

               広尾短信9 1975.(昭和50年)5.15.

 湯川秀樹さんの本にある話だそうが、少し前までの日本人はソデの長いワイ シャツを着ていた。 そういえばたくしあげたソデをおさえる変なバンドを今 でも田舎のオジサン達がしているのを見ることがある。 初めワイシャツは西 洋人の寸法のままで日本に入り、日本人の身体に合わせて作ればよいことに気 が付くまでに実に八十年の歳月が必要であったというのだ。

 われわれのまわりには、こんな何でもないことで、今までやつてきたことや 常識に「囚われている」ことがまだまだありそうだ。

 だれでも朝起きた時に歯を磨く。 夜寝る時も磨けば上等だ。 先頃、食後 すぐに歯を磨くといいということを読んで、やってみるとなるほど気持がいい。  汚れた時にきれいにするのだから、これが一番良いに決っている。 むし歯の 原因になる酸は、食後三分から三十分後までの間にエナメル質をとかすPH濃 度に達して活動するという。

「とらや」の赤飯2009/02/08 06:35

 『暮しの手帖』38号に「おいしい赤飯」という特集記事がある。 和菓子の 老舗「とらや」の赤飯と、家庭でそれに近い赤飯を作る方法の紹介である。  「とらや」の赤飯の美味しさは知っていた。 近年では、友達の病院の開院祝 いにいただいて、大喜びをした。

 『暮しの手帖』の記事によれば、「とらや」の赤飯の第一の特徴は、色の濃い こと。 羊羹を始めとする沢山の和菓子の餡を大量に作っているので、それに ともなって出来る小豆の煮汁はたいへんな量になる。 それを煮つめて、色づ けするから、濃くなるのだ。  「とらや」の赤飯の記録の一番古いものは慶安4(1651)年、桂離宮の話で 出て来た後水尾院の御所に、その子、後光明天皇が行幸した際に納入したもの だそうだ。 室町時代京都創業の「とらや」は、切腹を連想する「腹割れ」が しにくいというので武家社会の江戸で好まれたささげ(大角豆)ではなく、小 豆を使う。 小豆は蒸すと煮崩れしやすいが、色が濃くつき、煮汁の渋によっ て味に深みが出る。 さらに「とらや」では、赤飯をしっかりとした食感に仕 上げるため、特別に加圧した蒸気を使うのだそうだ。

 そこで、「とらや」に近い作り方で、わが家で赤飯を作ったかというと、さに あらず。 たまたま国立新美術館に絵を見に行ったので、ミッドタウンの「と らや」を覗いてみようと、思いついたのは手柄だった。 秋から春の間だけ、 注文を受けて作るという「とらや」の赤飯を、まんまと食すことに成功して、 めでたい春の到来となった。

再び「福澤諭吉展」へ2009/02/09 08:22

 7日の土曜日、東京国立博物館の「未来をひらく 福澤諭吉展」を再訪した。  記念講演会が平成館講堂であったので、聴きに行ったのだ。 先に田原町まで 行き、入山せんべいを買って、上野へ。 東京文化会館二階の精養軒レストラ ンで、ビーフ・カレーを注文したところに、松崎欣一先生が入って来られた。  同席して食事、表慶館の展覧会に入るところまでご一緒したので、いろいろと 質問し、貴重なお話を伺うことが出来た。  

先日「等々力短信」第995号に書いた松永安左エ門さんのコレクションだが、 東京と京都の国立博物館と福岡市美術館に寄贈される前に、実は慶應義塾に寄 付の申し出があったのに、慶應が断わったのだという(この話は、後の講演会 で前奈良国立博物館長の鷲塚泰光さんも言及した)。 表慶館前の阿吽の「緑の ライオン」は、展覧会の入口左に展示してある福澤諭吉座像(ふだんは志木高 校にある)と同じ作者、大熊氏広、日本におけるブロンズ彫刻の先駆者の作品 だということも、教えていただいた。

 先日も気になっていたのだが、入口で注意しているように、表慶館にはトイ レがない。 明治33(1900)年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚記念に計 画され、明治42(1909)年に開館した表慶館、設計はコンドルの弟子で、東 宮御所(今の迎賓館)も手がけた片山東熊だという。 その迎賓館が模したヴ ェルサイユ宮殿に、トイレが一つもなかったというのはよく知られている。 当 時のヨーロッパの宮殿は、どこも事情は同じで、用をたすときには、庭に出た のだそうだ。 表慶館も、当初からトイレがなかったのだろうか。

 短信を読んだスポーツ用品会社会長に、水原茂のユニフォームは高島屋製だ と教えて頂いた。 今回、襟のラベルをよく見てみたら、“TAKASHIMAYA KYOBASHI&MITA TOKYO”とあった。 日本橋ではない、京橋も三田も、 新たな疑問となった。

福沢は表慶館での自分の展覧会を、どう思うか2009/02/10 07:15

 それで記念講演会だが、一人目は昨年10月に福澤研究センター所長になっ た米山光儀(みつのり)さんの「同床異夢の教育―福澤諭吉と近代日本の教育」 だった。 米山さんは慶應義塾大学教職課程センター(中学・高校の教員を養 成する)教授で、専門は近代日本の社会教育史、ふだんは社会教育と学校教育 の架橋というようなことを考えているという。 国立博物館で講演することに なって、博物館が主要な社会教育の機関であることから、博物館についてもあ らためて考えてみたいと思っている、と語った。

 「はじめに」として、九鬼隆一と福沢の微妙な関係にふれた。 九鬼隆一は 慶應義塾で一年ほど学んで、文部官僚となってスピード出世し、とくに美術行 政に力と業績のあった人物で、十年間帝国博物館(国立博物館)の総長も務め た。 明治14年の政変で、慶應系が一掃された中で、文部官僚を続け、スパ イ活動をやったともいわれている九鬼を、福沢は生涯許さなかった。 九鬼隆 一に関係した明治の終りの建物である表慶館で、自分の展覧会が開かれること を、福沢はどう思うだろうか、と米山さんはいう(その答を、講演の結論にし た)。

 米山さんは、福沢が『学問のすゝめ』で教育の重要性を説き、国民皆学の近 代学校制度(「学制」)の成立に大きな影響を与えたといわれているけれど、福 沢の構想していたものが、本当に明治政府によってつくられた近代学校制度に よって実現したかどうかを、検討する。 そして、(1)福沢と明治政府の違い を明らかにする。 (2)近代日本教育史における慶應義塾の意味を考える。