「修身要領」普及講演会から地方巡回講演へ ― 2009/04/01 06:57
(3)「修身要領」普及講演会から地方巡回講演へ。 「修身要領」は、小幡 篤次郎を中心とする高弟たちが、福澤諭吉の修身処世の主義を、全29か条に まとめて、1900(明治33)年2月に発表したもの。 福澤は「修身要領」を 塾内だけでなく、社会一般に弘布するために、自らの著書の収益を投じて地方 遊説を行うことを提案し、「修身要領」普及講演会が行われるようになるが、福 澤は一時、義塾を廃校にして土地の売却金で運動しようとまで考えるほどの、 熱意を持っていた。 同年4月、信州上田(神職講義所が会場)での第1回を 皮切りに、一か所に三、四名で出かけて講演する形式で、全体で100回ほどの 講演会が行われた。
明治41(1908)年に理財科主任(経済学部長)になって学部を指導した堀 江帰一は、「私立大学に関する所感」(『三田評論』第24号)で、大学で培われ た学問を民衆に提供し、働きかけたらどうか、と提案した。 地方巡回講演は、 明治末から昭和初期まで断続的に行われたユニバーシティーエクステンション (大学拡張・大学開放)の一種で、3~5名の大学教員が一組となって、十日 間ほど地方を巡回し、講演を行った。 第1回は1908(明治41)年8月2日 の岐阜県立中学校講堂,「史学について」田中萃一郎、「文学の使命」高橋誠一 郎、「吾国現時の教育」川合貞一、「教育論」鎌田栄吉、「価値の教育、教育の価 値」福田徳三というメンバーで、約500名が聴いたという。 そのあと山陰・ 山陽を回っている。 1910(明治43)年までは春と夏の年二回行われたが、 それ以降不定期となった。 当初は学生を集める宣伝活動の意味もあったが、 大正半ばに大学令の総合大学となって、制度的に安定すると、その面は薄れた。 時局の影響もあり、1937(昭和12)年夏の巡回講演が最後となった。
石田新太郎と成人教育協会 ― 2009/04/02 07:11
(4)石田新太郎と成人教育協会。 石田新太郎(明治3(1870)年~昭和2 (1927)年)は、福島県三春の出身で1893(明治26)年慶應義塾大学部文学 科第二回の卒業。 卒業後教育学を学び、1895(明治28)年に「三春生」の ペンネームでヘルバルト教育学批判を発表し、谷本富(とめり)との間で論争 になった。 その後、陸軍士官学校や幼年学校で教鞭をとり、明治34年台湾 国語学校教頭、1908(明治41)年に慶應義塾幹事に就任した。 幹事職は塾 長を補佐する役で、途中の三年を除き、1922(大正11)年鎌田栄吉塾長が文部 大臣に就任し、幹事職が廃止されるまで務めた(この職にあったのは石田だけ)。 その後は義塾理事となって、在職中に没する。
『女子大学講義』(1909年)、『天化(てんげ)人育』(1912年)、『環境と教 育』(1924年)などの著書がある。 石田は、ヘルバルト教育学が対象を学校 教育に限定して科学的教育を展開する、その限定を批判し、自然、社会、家庭、 寺院などの環境の教育力に注目した。 1920(大正9)年、『義塾に関する卑見』 で校外教育部の設置を提唱したが、実現しなかった。 1924(大正13)年、 個人で成人教育協会を設立し、チュートリアルクラス(輔導学級)による成人 教育講座を実施、『成人』を刊行した。 石田没後の成人教育協会は板倉卓造、 小泉信三らの委員会で運営され、慶應との関係性は強かった。
「夏潮」お花見クルーズ ― 2009/04/03 06:57
29日の日曜日は「夏潮」お花見クルーズだった。 前にも乗ったことのある マルコポーロ号で11時に浜離宮桟橋から出航、隅田川をさかのぼり、墨堤の 桜を見て、松尾芭蕉が「奥の細道」に出発した千住大橋まで行って、折り返し た。 「月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也」、元禄2 年3月27日(陽暦5月16日)杉風(さんぷう)杉山市兵衛の深川六間堀にあ った別墅(べっしょ)採荼庵(さいとあん)を舟で出発した芭蕉は、今の仙台 堀川水門の所から隅田川に入り、千住で上陸したのだという。
行春や鳥啼魚の目は泪
開花は早かったものの、花冷えがつづいて、この日も風が冷たかった。 墨 堤にはけっこう人が出ていたが、桜はせいぜい三、四分咲きといったところ。 日曜日の大川両岸の町には、人影がなく、船のエンジン音だけが響いているだ けだ。 ゆったりとした気分で、土手の景色を眺めながら進んで行くのだが、 なかなか句にならない。
花見舟日曜の町は死んでゐる
築地の社会教育会館で句会、42名が参加、私はつぎの五句を出した。
春浅き土手に家族の座りをり
花冷えやホームレスまた物を干す
花の土手後ろを向いて歩く人
白き船上げ早春の造船所
大川端光まとひし猫柳
「春浅き土手」と「白き船」に、二票ずつ頂いて、大人数にしては、まずま ずといったところだった。 私の選句は、つぎの五句だった。
芽柳や朝の水際に光りをり 華
橋くぐる度の春日や隅田川 なな
墨堤のぼんぼり連らね花三分 静江
船足をゆるめ桜の咲くあたり 裕子
戻り舟背なに春陽の柔らかく 晶子
闇汁句会の屋形船句会 ― 2009/04/04 07:07
お花見クルーズで思い出したのだが、作家の小林恭二さんがasahi-netでや っていた闇汁句会の屋形船句会に参加させてもらったことがあった。 平成6 (1994)年3月27日の日曜日、なんとあれから十五年も経ったことになる。 小林恭二、薄井ゆうじ、小澤實、佐怒賀正美、寺澤一雄といった作家、俳人の 方々とも同船して、駒形橋のあたりから出た。 当日出題の題詠十句、その題 が「前」「海老」「ドーナツ」「髪」「鳥」「川」「たばこ」「海」「吊り広告」「晴れ」。 17名のこの句会、恐ろしい逆選というマイナス点があった。 私の句と得点は、 以下の通り。 合計28点で予想外ほくほくの6位、上にはトップの小林恭二 さん40点、3位・佐怒賀正美さん38点、5位・小澤實さん36点がいた。
「前」 蔵前の札差成美花疲 +8
「海老」 甘海老のつるりつるりと花の宴 +4
「ドーナツ」 春うららドーナツの煙ポンポン船 +2-1
「髪」 半玉の髪乱れたり春風に +3
「鳥」 言問わん京にもいるか都鳥 +4-1
「川」 草の絮(わた)隅田川をば渡り行く +2
「たばこ」 白魚の一寸の指タバコの火 +2-2
「海」 春の海へ平成不況のもやいとく +2-3
「吊り広告」 春場所や吊り広告はすったもんだ +4
「晴れ」 春晴れて福翁二枚拾ひけり +4
合計28点
「良い先生」とは ― 2009/04/04 21:14
4日、交詢社で「桑原三郎先生を想う会」が開かれた。 幼稚舎で担任され た8クラスと、白百合女子大の教え子たちが一堂に会し、先生に感謝とお礼を する集いだったが、私もゲストで参加させてもらった。 先生とは1月25日 の「桑原三郎先生の訃を聞いて」に書いたご縁であったが、たまたま先生が昭 和23年に最初に受け持たれた一期生と大学の同期という縁もあった。
桑原先生にいただいたご著書『福澤諭吉の教育観』(2000年・慶應義塾大学 出版会)の「日本の学校教育」に、先生の幼稚舎での教育の様子が述べられて いる。 昭和23年3月に満21歳で旧制の慶應義塾大学文学部(心理学専攻) を卒業した先生は、男子32名、幼稚舎初の女子11名計43名の1年O組を担 任した。 旧制高等学校や大学予科で心理学や論理学を教える免許状はあった けれど、小学校の免許状はなく、代用教員の資格で、実は舎長の吉田小五郎先 生(史学科卒)もそうだった。 経験も十分ということで、東京都から小学校 の二級免許状をもらったのが、昭和30年代の初めで、代用教員であることに プライドを持っていた先生は、余計なことをするものだ、と思ったという。 そ の一年後、文部省か東京都か、役人の規制の結果、官立はもちろん私立の小学 校も、免許状のない人は採用できなくなった。 桑原先生は「良い先生という のは、善い人、つまり、卑しいことを嫌い、よく勉強して、人に親切であるこ とが第一で、免許状の有無など関係がないのだと、今でも思っております」と、 書いている。
桑原三郎先生は、正に、ご自身がおっしゃる「良い先生」であった。
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