「まぼろしの薩摩切子」展2009/05/01 07:13

 29日、サントリー美術館の「まぼろしの薩摩切子」展を見に行こうと思って、 自由が丘駅へ行ったら、中目黒の人身事故で、東横線が止まっていた。 あま り出かけないのに、最近よく人身事故による電車の不通に遭う。 不況の深刻 さを反映しているのだろうか。 振替で南北線の六本木一丁目へ回ったので、 期せずして草彅剛D・ホフマン一件の現場、檜町公園を通ることになった。

 スペイン料理というBodega Santa Ritaでランチ、「まぼろしの薩摩切子」 展へ。 入ったとたん「憧れのカットガラス」の薩摩のガラス製造の概説に、 びっくりした。 薩摩でガラス製造を始めたのは、てっきり島津斉彬だと思い 込んできたが、父の斉興だったというのだ。 大河ドラマの『篤姫』で言えば 長門裕之である。 斉興は弘化3(1846)年中村という所に製薬館、「なかむら 硝子精製場」をつくり、江戸の硝子師四本亀次郎を招いて、ガラス製造を始め たという。 斉彬の代になって、飛躍的に成長した。 No.25板ガラス(尚古 集成館蔵)の説明に、幕府天文方の馬場貞由がボイス、ショメル、ケレルクの 蘭書からガラス関連項目を訳出した『硝子製法集説』(文化7(1810)年)や、 薩摩はボイスの『術芸全書』のガラスに関するすべての項目を独自に訳して、 参考にしていた、とあった。 馬場貞由は「馬場佐十郎」で『広辞苑』にも出 ている江戸後期の洋学者だが、残念ながら親戚ではない。

 陳列の薩摩切子では、昔から見てきた名品以外では、No.67 藍色被栓付瓶 (コーニング・ガラス美術館蔵)が素晴しく、No.32 藍色小皿(尚古集成館 蔵)が愛らしい。 No.112「篤姫」の雛道具(徳川記念財団蔵)が、薩摩切子 の器をそのままミニチュアにし、まことに手が込んでいて、なんとも可愛らし い。 藍色と紫色の境界が、微妙である。 長年「透き」と呼ぶ透明なガラス 製造に従事していたので、今回の展覧会が「無色の薩摩」に注目して、その一 端を紹介していたのも(色被せに比べ、褪色が目立つが)、感慨深かった。

 幕末、明治初期、徳川家、越前の松平家、宮中の女官などに贈り物として使 われた作品も展示されていた。 明治5年、市来四郎が西田村に開いた開物社、 明治6年、品川の興業社でのガラス製造、明治10年、宮垣秀次郎の(博覧会 への?)切子出品、明治中期に行なわれていたらしい薩摩切子陳列会などにも、 興味を持った。

ルーシー・リーと三宅一生2009/05/02 07:05

 東京ミッドタウンでは、もう一つ見たいものがあった。 21_21(ツーワン・ ツーワン) DESIGN SIGHTのルーシー・リーの陶器だ。 4月から姜尚中さ んと、中條誠子(なかじょうせいこ)アナのコンビになった「日曜美術館」で 19日に放送された「陶器とボタンの贈り物 三宅一生と陶芸家ルーシー・リー」 を見た。

 三宅一生さんは1984年、ロンドン、コヴェント・ガーデンの本屋で、純白の凛とした花瓶が表紙の一冊の本に目を奪われた。 ルーシー・リーの作品集 だった。 そこに並んでいる陶器に、いたく心を動かされた。 当時、世界的 名声を得ながら、自信が持てずにいたという三宅さんはすぐ、ロンドン南部ア ルビオン・ミューズにルーシー・リーの自宅兼工房を訪ねる。 彼女の人柄と 作品の数々に触れて、「ものづくりとは、こういうことだ」と直観して、心も身 体もリフレッシュし、勇気づけられた、という。 帰り際に、ルーシーは棚に 並んでいた作品の内、白い器を新聞紙にくるんでプレゼントしてくれた。 そ れは三宅さんが、密かに一番いいと目をつけていた作品だった。 以後、三宅 さんはロンドンに行けばルーシー・リーを訪ねることになる。 1989年の ISSEY MIYAKE秋冬コレクションでは、ルーシーの陶製ボタンから発想して デザインした服を発表した。 番組で中條アナが着てみせていた。

 ルーシー・リーは、1902年分離派運動真っ盛りのウイーンの裕福な家庭(医 者?)に生れ、美術学校で陶芸を学んだが、1938年ナチスの迫害を逃れて、ロ ンドンに移住した。 イギリスに亡命したルーシーの暮しは、自ら「キャベツ の日々」と振り返る厳しいもので、陶製のボタンづくりで生計を支えた。 ル ーシーの色とかたちの基礎になったという600を超えるボタンとその鋳型は、 ルーシーの遺言で三宅一生さんに贈られ、今回の展覧会にも展示されている。

21_21 DESIGN SIGHTの「うつわU-Tsu-Wa」展2009/05/03 08:18

 21_21 DESIGN SIGHTは、初めて入った。 「うつわ U-Tsu-Wa」展は、 ルーシー・リーだけでなく、(後でわかったのだが)その系譜を受け継ぐ陶芸家 ジェニファー・リーと、木の器の作家エルンスト・ガンペールの二人の作品も 展示するものだった。 木の器は素材も作風も違い、コーナーが別になってい たので、別の人だとわかったけれど、広い展示室の方は、てっきりルーシー・ リーの作品だけだと思ってしまった。 底を上にしたガラス瓶を敷き詰めた水 盤をつくり、流れる水の上に浮くように作品を展示している。 その配置は、 これも後でわかったのだが、各作家の星座、ルーシー・リーなら魚座の形に置 かれていたのだそうだ。

 この会場構成は、建物も設計した安藤忠雄さん。 ちょっと凝り過ぎていて、 ひとつひとつの陶芸作品を身近に見るということが出来ない。 それぞれの質 感、釉薬の発色、微妙な形、厚さや薄さのようなものが、よく見られないのだ。  当然、それぞれの作品の題名や年代は、入口で配っているパンフレットを参照 しなければわからないことになる。 それで恥ずかしながら、私はジェニファ ー・リー Jennifer Leeの作品を、ルーシー・リー Lucie Rieだとばかり思い 込んで見て来てしまったのであった。 あたかも、LeeとRie、LとRの発音 を混同して、うまく出来ないかのように…。  ついでながら、ルーシー・リーの陶製ボタンも、「日曜美術館」で見た時ほど、 感激しなかった。

才紫と歌奴、「の方(ほう)」世代2009/05/04 07:08

 30日は、徹夜の行列で無事同じ6列目を確保した、新年度初の第490回落語 研究会。 定連の顔ぶれがガラッと変った感じで、さすがに空席はほとんどな い。

 「たがや」        桂 才紫

 「天災」 三遊亭歌彦改メ 三遊亭 歌奴

 「茗荷宿」        柳亭 市馬

         仲入

 「肝つぶし」       柳家 さん喬

 「人形買い」       入船亭 扇遊

 桂才紫、出囃子は炭坑節、調べると平成11年3月25日に中央大学心理学専 攻を卒業、3月27日に桂才賀に入門している。 二ッ目に昇進した平成11年 5月、29日の第419回落語研究会で、それまで才ころの名で、座布団運びとめ くりをやっていた御褒美に「狸の札」をやらせてもらっている。 私の評は「研 究会のこの手の御褒美組では、まあまあの出来と柄。 但し、若者言葉の「の 方(ほう)」の連発は、やめなければ駄目。 言葉でやる商売なのだから、そう いう神経が必要だ。」 今回も「私の方はサイシ」とやった。 次の歌彦改メ三 遊亭歌奴も、「私の方は、9月に真打に昇進して四代目の歌奴を継ぎまして…、 圓歌のところに入って十五年」と、やっていた。 「の方(ほう)」の世代が、 もう真打になっていた。

市馬の「茗荷宿」2009/05/05 08:43

 「ミョウガ」を、なぜ「茗荷」という字で書くのか。 十人十色、そそっか しい人がいる。 人の名前を憶えない人がいる。 師匠の小さんは、場所を間 違えた。 国立小劇場のはずが、東横ホールに行ったりした。 天竺にハンド ク(槃特)という僧がいて、人の名前どころか、自分の名前を忘れる。 寄進 者に名前を訊かれても、答えられないので、喜捨もしてもらえない。 お釈迦 様が気の毒に思って、つまり仏心を出し、ハンドクの背中に名前を書いた幟を しょわせた。 それで寄進をしてもらえるようになったという。 ハンドクが 亡くなって、その墓から珍しい草が生えた。 最初はハンドク草と呼ばれてい たが、「ミョウガ」に変っていった。 漢字では、名を荷うと書いて、「茗荷」 と書く。 そんな因縁があって「ミョウガ」を食べ過ぎると、物忘れするとい われている。

 かつては本宿の脇本陣を務めていた茗荷屋竹次郎、当代はお世辞やよいしょ の言えぬ性格のため家業が傾き、脇本陣の看板を取られ、今は本宿から山越え 一里半の宿はずれで、国敗れて山河あり、障子破れて桟ばかり、一間しかない 汚い宿屋をやっている。 夕立で、やむなく泊まろうとした二人の旅人(たび にん)にも、盥桶がガタガタで擂鉢で足を濯がせ、あとで味噌汁がジャリッと したり、雨が漏るのを、傘を差して寝てくれと言って、逃げられる。 にっち もさっちも行かなくなって、宿をばったに売り、畳んで江戸へ出ようと相談し ているところに、天秤棒でかついだ両掛け荷物の三百両が心配で心配でと、信 用して預ける客が泊まる。 竹次郎、一計を案じ、初代の命日だと言って、茗 荷づくしの料理を出す。 茗荷の素揚げ、茗荷の焼き物、茗荷の御付、茗荷の 寿司、茗荷のてんぷら、茗荷の漬物、デザートに茗荷のタルト。 三百両の客、 うまい、うまいと、食べて、ぐっすりと寝てくれたのだが…。  と、私がたくさん書いた時は出来のよかった証拠で、この夜の市馬もそうだ った。