大蔵大臣として財閥解体などにかかわる2009/07/05 06:29

 (『渋沢敬三という人』つづき)          (4)戦後日本の再建に果した役割

 昭和17年3月、渋沢敬三は第一銀行副頭取から日銀副総裁に就任する。 敬 三の母敦子は、「第一銀行の頭取になるのは親の七光りであるけれども、栄一が 死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことは、単なる親の七光り ではない、これで自分も冥土へ行って、夫や栄一にあわす顔がある」と、声を 出して泣いて喜んだという。

 19年春に日銀総裁、終戦直後の幣原内閣では大蔵大臣になった。 大蔵大臣 としての渋沢は、インフレーションの収束に奔走することになり、新円切り換 え、預金封鎖、財産税・戦時利得税の創設、財閥解体などにかかわった。 イ ンフレそのものは容易に収まらなかったけれど、財政破綻の危機はまぬがれ、 国民を飢餓から救うことはできた。

 武見太郎著『戦前・戦中・戦後』(講談社)につぎのような記述がある。  「こ の人はただの華族のお坊っちゃまではなくて、本当に経済学者としてもりっぱ な見識を持っていたし、科学者としてもすばらしいものを持っていたのであっ て、私は戦後の日本のあり方を決めるうえにおいて、渋沢さんが政治家として 果された役割がよほど大きかったことが、あまり世間では知られていないよう に思う。 財閥解体ということがGHQの命令として決められたときに、渋沢 さんは渋沢財閥を率先して解体している。 そして、これに対して徹底的に闘 った三菱財閥の岩崎さんを自ら訪ねて、自分でもこうやった、もう負けた以上 はだめなんだ、といって岩崎さんを説得し、財閥解体に応じてもらって、その 勢いで全部の日本の財閥がGHQのいうことをきいたという話を、私は吉田 (茂)さんから聞いた。 吉田さんはその意味で、渋沢さんを高く買っていた。  もし渋沢さんが大蔵大臣の現職にあり財閥の巨頭であって、それがいうことを きかなければ、日本の財閥解体はうまくいかなかったと思われる。 それがス ムーズにいったというのが、じつにこれは渋沢さん一人の力であるといっても よかった、ということを吉田さんは述懐していた」

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