渋沢敬三、人柄うかぶエピソード ― 2009/07/11 04:54
(『渋沢敬三という人』のつづき)
(5)人柄うかぶエピソード
渋沢敬三の人柄を物語るエピソードを、いくつか紹介しておこう。 佐島敬愛という人が渋沢の思い出を書いた中に「先生は、ある意味では帝王 学的な教育を若い時から受けられていた。 それだけに物ごとの考え方が常に、 広い基盤で考えられていたようであり、ことの正否を見る時に、ある意味から いったら理解を超越したような決定をされる場合がひじょうに多かった。 た とえば、ナポリに行った時、ナポリに魚の世界的な研究所があるが、それに先 生は私費で、ちゃんとお金を出しておいて、日本の学者があそこへ行って勉強 できるような穴をつくったりした。 気をくばるというのじゃなしに、自然に そういう考え方が出てくる」という話がある。
渋沢のエッセイの中に「失敗史は書けぬものか」というのがあるという。 伝 記、研究史、社史のようなものを見ると、その多くは成功史である。 しかし 失敗や欠点を主にして、側面から見ることはできないであろうか。 というの が、渋沢の持論であった。
渋沢の死後、長男雅英が出光佐三に会ったら、「お父さんにはずいぶん世話に なりました」といったという。 戦前出光が中支で大きい仕事を始めようとし たが、金融がつかず困っていた。 第一銀行の常務をしていた渋沢は、出光の 話を聞くと即座に、「結構です。 お貸ししましょう」といって当時の金で五百 万円とか千万円とかいう、かなりの金額のものを融資した。 「銀行は人に金 を貸すんだ。 この人ならと思ったら思い切り援助するべきものだ。 近ごろ は貸す方も、借り方も、お役所仕事みたいでつまらなくなったね」と、よく渋 沢はいっていたという。
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