雲助の「髪結新三(上)」発端2009/07/17 05:52

五街道雲助の「髪結新三(上)」である。 プログラムの田中優子さんの「新・ 落語掌事典」に、咄家の乾坤坊良斎が作った人情噺が先で、それを河竹黙阿弥 が明治初期に歌舞伎の「梅雨小袖昔八丈」に芝居化したとある。 雲助も噺の 中で、シュンキンテイ・リュウオウの口演を芝居にした、と言っていた。 春 錦亭柳桜と書く。 小学校の国語で習ったあの歌「見渡せばやなぎさくらをこ きまぜて都ぞ春のにしきなりける」から取った名前だそうだ。 この人、三代 目麗々亭柳橋という明治時代の大看板で、江戸から明治に替わった時に、三遊 亭圓朝と二人で落語頭取(今でいう会長)を務めていた。 圓朝よりはずっと 年上、のちに倅に名をゆずり、自分は隠居名前の春錦亭柳桜を名乗った。 明 治6年、芝居にするために口演した時は、麗々亭柳橋だったのだろう。

紀伊国屋文左衛門は一代で百万両の金を稼いだが、二代目がその百万両を、 また一代で使い切ったというところから噺に入る。 どのように使ったか。 吉 原の大門を三度とか四度とか閉めたという(総揚げ、貸切)。 客を呼んだ際、 「ほかでは食べられないもの」と言って、そばを一枚出した。 何だと思うと、 江戸中のそばを買い切っていて、そばはここでしか食べられない。

その二代目の番頭をしていたのが庄三郎、目はしの利く男で、インサイダー 情報で紀伊国屋の危機を察知し、生涯の思い出に自分の店を持ってみたいと言 い出す。 二代目は了解し、千両つけてくれた。 新材木町の角地に勢州白子 の出身なので白子屋(しろこや)という材木屋の店を出す。 庄三郎は厳しい商売で成功したが、一方、紀伊国屋は没落した。