志ん輔の「庖丁」2009/09/01 07:21

 「庖丁」は、珍しい噺だ。 円生は、第69回の落語研究会、1973(昭和48) 年11月26日に演っている。 聴いたのだろうが、すっかり忘れていた。 志 ん輔は、円生の思い出を二つ話した後で、男と女は、不可思議なものだと言う。  細君へのプレゼントは、三日、あるいは40分くらいで、効力が切れる。 「何?」 「アラ」となるから、お金が一番。 ベッカムは、なんて無駄なことをしてい るんだろう、会ったら言ってやろうと思っているけれど、会う機会がない、と。  男と女、別れる時が難しい、と「庖丁」に入る。

 久次(きゅうじ)と寅んべいが久しぶりに出会う。 寅は尾羽打ち枯らして いるが、久次は様子がいい。 清元の師匠(32)の所に出入りしているうちに、 わりない仲になり、家に入り込んで亭主に納まったという。 鰻でも食うかと いわれて寅は、一年も食っていないと泣く。 儲け口に乗らないか、と久次、 脇に若い女が出来たと思いねえ、と作戦を授ける。 御神燈に清元延安喜とあ るのを訪ね、兄貴が帰るのを待つと上りこんで、手土産に持っていった一升の 酒を飲む。 ねずみ入らずの上から二番目の左にある佃煮と、台所のあげ板の 三枚目をあけた漬物を肴に。 酔った振りをして、カカアの袂を引き、肩に手 をかけたところへ、久次が登場、出刃包丁を畳に突き立てる。 二三年、田舎 芸者に売ッ飛ばして、山分けしよう、と。

 計略通り上りこんだ寅んべい、清元の師匠に酒をすすめて「いただけません」 と、きっぱり断わられ、こわい顔をしていないで、三味線でも弾いてくれない か、と言い出す。 小唄なんてのはどうか、「八重一重、山もおぼろに薄化粧、 娘ざかァりィはァ…よいィさくらァばなァ…なんてね」と、手を出す。 ピシ ャッと叩かれ「だいたい女を口説くツラか、だぼ鯊、ブルドック」と言われた 寅、「やりたくなかった仕事だ、あいつは悪い奴だ、俺だったらやさしくする」 と、明かす。 ここで、大どんでんがえしとなるのだが、そいつはどこかで「庖 丁」を聴くまでの、お楽しみに。

扇遊の「夏の医者」2009/09/02 07:07

 扇遊は前座の時、二度ほど円生と旅(興行)を一緒にしたという。 扇橋や 紙切りの正楽(先代)もいた。 蕎麦屋に入って、円生はカツ丼を注文した。  しっかりしたものを食べるんだ、と思った。 会話はなかった。 円生は半分 食べて、残りを扇遊にくれ、「セコでげす」と。 貴重な体験だ、と扇遊。  円生が亡くなった日に、パンダも死んで、翌日の新聞はパンダの方を大きく 扱った。 「くやしかった」と、扇遊は言った。

 「夏の医者」は、「ピノキオ」風のSFっぽい噺だ。 暑い夏の盛り、無医村 カシマ村のタゼエモンが倒れて、息子が隣村の一本松にゲンパクロウという医 者を迎えに行く。 山を回ると六里、越えると四里半。 真竹の皮でつくった 「ばっちょう笠」をかぶった医者が、草むしりを済ますのを待って、薬籠を提 げ、二人で山を越える。 山頂で一服、極楽の余り風だなどと言っていると、 突然、暗くなる。 生暖かくて、青臭い。 医者が、ウワバミに呑まれたと気 付き、薬籠の下剤ダイオウの粉を撒く。 光る丸い小さな穴が見え、二人は溶 ける前に下されて、全身青臭くはなったものの助かる。 タゼエモンを診て、 チシャ(今風に言えばレタス)の胡麻よごしの食べ過ぎの、ものあたりだと診 断するが、薬籠をウワバミの腹の中に忘れて来ていた。 気丈な医者は、もう 一度、ウワバミに呑まれに行く。 ウワバミは、大木にひっかかった形で、げ んなりしていた。 医者が事情を話して、交渉するが、ウワバミは「もうダメ だよ、夏の医者は、腹に障る」

さん喬の「猫定」2009/09/03 07:05

 トリは、さん喬の「猫定」。 女房が刀を三遍いただく穏和な久三「猫久」や、 常磐津の師匠文字静と常吉がいい仲になる猫の忠信「猫忠」は、よく聴くけれ ど、「猫定」は珍しい。 円生は1973(昭和48)年8月30日の第66回落語 研究会で演っていて、昨日新聞に広告の出ていた『落語研究会 六代目三遊亭圓 生全集 上』のDVDにも「庖丁」「紀州」と共に入っている。 さん喬は、師 匠小さんが「円生師はうめえ、俺は、ときどきうめえ」と言っていた、という。

 「猫定」は、両国回向院の鼠小僧の墓の隣にある「猫塚」の由来噺、怪談で ある。 八丁堀の玉子屋新道にバクチ打ち(表向きは魚屋)の定吉が住んでい た。 気のいい男で、朝湯の後、三河屋で一杯やるのが常だ。 その三河屋が 捨てようとした黒猫をもらってきて、「熊」と名付けて可愛がる。 女房のお滝 は猫嫌いだ。 定吉は「熊」にバクチを教えて、丁半を鳴き分けることに気付 く。 懐に「熊」を入れ、まんまと大儲けして、兄イ、猫定の親分と呼ばれる ようになる。 奉行所に目をつけられたので、しばらく江戸を離れることにす る。 ときどき寄ってくれと留守を頼んだ弟分の源太に、お滝は「源さん、ゆ っくりしておゆきよ、一本つけるから」と、さしつさされつ。 二度三度四度 と重なる内に、雨になる、「やらずの雨だ、泊まっておゆきよ」

ふた月して、定吉が帰ってくる。 元の暮しに戻ったお滝には、風穴があい たような日々。 愛宕下の賭場へ出かける定吉は、晩くなる、泊まりになるか もしれない、と。 泊まっておいでよ、とお滝。 源太を呼んだお滝、「あの人 さえいなければ、お前さんと暮せる。私はあの人を消すよ」と、打ち明ける。  「姐さん、俺がやるよ」と源太、箒を出刃包丁でザクッとやって灯し油で焼き、 竹槍をつくる。 新橋で一杯やって帰る定吉を待ち伏せ、後ろから竹槍で突い て、出刃包丁でノドを掻き切る。 そこへ黒猫が飛び出て、源太のノドを掻き 切った。 定吉の家では、台所の引き窓の綱が切れ、見に行ったお滝のところ へ、黒いものが飛び込んで来て、そのノドを掻き切った。

長屋では、悲鳴と物音で月番が見に行き、お滝の死体を発見、定吉も殺され たことがわかって、通夜となる。 ニャーオの声と共に、棺桶の蓋がずれ、ホ トケが棺桶に立った、二人並んで…(さん喬は「キョンシー」と)。 長屋の連 中が百万遍を唱えると、念が通じたか、ようやく二人は棺桶に戻った。 隣の 空家で、唸る声、妖怪、奸物か、小刀を投げると、グサッと刺さった。 「熊」 だ、そばにノド笛が二つ、血にまみれていた。

政権交代と『民情一新』2009/09/04 07:14

 本当は円生没後三十年の落語研究会の話を、だらだら書いている場合ではな かった。 その間に、世の中がひっくりかえった。 8月30日の衆議院議員選 挙の結果、民主党が単独過半数(241議席)を大幅に上回る308議席を獲得し、 政権交代を確実にした。 自民党は119議席、選挙前勢力の3分の1余に激減 する惨敗で、1955年以来続いた自民党「第一党」体制も終わった。 政権交代 可能な二大政党制を目指して衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入されて 15年、総選挙で野党が単独で過半数を得て政権が交代するのは戦後初めてだ。

 慶應をほぼ同じ頃に出た小沢一郎さんという人、個人的には好きではないが、 その主張していることは、実は福沢諭吉の説いていたことと同じである。 二 大政党制による政権交代、官尊民卑の打破、予算の裏付けのある地方分権(地 方から始めて中央へ)。 1993(平成5)年に8党連合の細川「非自民」政権 をつくったのも、55年体制を脱して政権交代のある政治をつくらないと日本は 後れをとる、そのためには小選挙区制だと推進したのも、小沢一郎さんだった。  そして今回、小選挙区制の利点を生かし、選挙戦略の知恵を尽して、民主党を 勝利に導いた。

 国会開設の11年も前の明治12(1879)年8月、福沢は『民情一新』を出版 した。 その最終、第五章は「今世に於て国安を維持するの法は平穏の間に政 権を受授するに在り。英国及び其他の治風を見て知る可し。」である。 イギリ ス議会の二大政党による円滑な政権交代の事情を紹介、推奨し、どんな政権で も三、四年で国民の間に不平不満を生じるものだから、その時期を誤らずに新 旧の交代をする働き(制度)は、機転の妙所というべきだと言っている。 今 年は、『民情一新』からちょうど130年、大日本帝国憲法発布(明治22(1889) 年)から120年に当たる。

「すべては横浜にはじまる」2009/09/05 07:04

 ブログの左上に出ている「福澤諭吉と神奈川」展だが、まず8月29日に神 奈川県立歴史博物館へ行ってきた。 博物館の地下講堂で開かれた慶應義塾福 澤研究センター主催のシンポジウム「家族とは何か―福澤諭吉の女性論・家族 論を通して現代を考える」を聴きに行ったからである。

 「福澤諭吉と神奈川」展、副題は「すべては横浜にはじまる」だ。 福沢は 大坂の適塾で蘭学を修業し、江戸に出て築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で蘭学塾を 始めて間もない安政6(1859)年、開港直後の横浜を見物に行く。 横浜で、 福沢は非常に落胆する。 それまで死にもの狂いで学んできたオランダ語が通 じない。 看板も読めなければ、壜のレッテルもわからない。 福沢の偉いの は、状況を見て転換を計る、その決断の早さにある。 横浜から帰った翌日に は、これからは英語だと「英学発心」したのであった。 一日、もし福沢が横 浜を訪れなければ、日本の運命はどう変っていただろうか。

 平成4(1992)年4月26日、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で横浜を訪れ た私は、『福澤手帖』73号(平成4年6月20日刊)に、その感想文「日本の 『窓』ヨコハマ」を書かせてもらった。 冒頭に、上の福沢の「英学発心」の 話を据えた。 以来、10編の文章を載せていただいた『福澤手帖』への、最初 の寄稿だった。 「すべては横浜にはじまる」である。