二百十日生れ、「悪魔の水」2009/10/29 07:20

 幸田文さんの生れは、日露戦争勃発の年、明治37年(1904)9月1日、二 百十日、「みそつかす」の冒頭に「暴風雨(あらし)のさなか私が生れた」とあ るそうだ。 亡くなったのは、昭和55(1990)年。 三つ違いの弟が17歳の 時は、20歳、大正13(1924)年だろうか。 「大正の色」といっても、その 末期ということになる。 その前年、19歳の9月1日は関東大震災、大変な数 の人死があったし、死なないでも辛い思いをした人が多いわけで、以来、自分 の誕生日を祝うことが出来なくなってしまった、それは人を悼むための日だと、 随分言っていたと、青木玉さんの『記憶の中の幸田一族 青木玉対談集』(講談 社文庫)にある。

 同じ小森陽一さんとの対談に、こういう話もある。 三人(文さんの上に、 幼くして死ぬ姉がいた)の子の母、幾美さんが、明治43年に36歳で亡くなる。  文さんは5歳、弟は2歳だった。 後妻のクリスチャンは学校の先生もしてい た人で、宗教的信念から露伴の晩酌に付き合うことを断固拒否し、「悪魔の水」 と言っていた、という。 註釈に、こんな露伴の日記が引いてある。

 「二十四日 妻したゝかに晏(おそ)く起き出で、身じまひして外出す。基 督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。 頃日来差逼(せま)れて文債を償ふに忙しきまゝ、小婢まかせになし置く、家 の内の荒涼さ、いふばかりなし。」(「六十日記第九」大正三年四月)