幼時自伝的俳句「白い夏」2010/01/01 08:17

 俳誌『夏潮』一月号に、第1回黒潮賞(60歳未満)と親潮賞の結果発表があ った。 それぞれ、前北かおるさんの「讃岐富士」と、清水明朗さんの「蟷螂 の意地」が受賞した。 9月末締切で募集があって、実は私も親潮賞に投句し ていた。 二十句の作品などというのは、初めての経験で、幼時の空襲から終 戦後にかけての記憶を並べてみた。 いわば自伝的俳句である。 元日早々の、 初笑いに供する次第。

  「白い夏」

五月なる初めの記憶大空襲

踏切の棹燃えてゐた五月闇

白い夏ジープに轢かれさうになる

雲の峰ギブミーチョコと手を伸ばし

キティ台風二階の庇かつさらふ

ダリヤ咲く街頭録音民主主義

祖母の舞ふ「梅にも春」や蓄音機

氷屋がノコギリで挽く氷かな

白服の街頭写真父銀座

ナイロンの歯ブラシ光る夜店かな

古橋の泳ぐプールの青さかな

メモリアルホールで見たる相撲かな

進駐軍のパンの白さや九月場所

初バナナ乾燥バナナ旨からず

八時からの割引映画夏の宵

汽車の旅駅ごとに咲くカンナかな

トンネルで窓を下げたる蒸し暑さ

ざらざらの経木がにほふアイスかな

さつまいも食べて出かける二部授業

秋の暮奉安殿跡かくれんぼ

水上瀧太郎の「撒水車」2010/01/02 07:47

父の描いた「撒水車」(薄いけれど…)

 暮に坂上弘さんの三田演説会での講演「荷風・瀧太郎の「三田文学」」につい て書いた時に、岩波文庫の『貝殻追放 抄』(1985年)を参照した。 文庫本に 挟んであるものがあった。 亡父の描いたハガキ大の絵である。 まったく記 憶がなかったのだが、「撒水車」という随筆を読んだ私が、父にその話をし、本 も見せたので、描いたのだろう。 父は、問題の場所の近くで育ち、水上瀧太 郎さんと小泉信三さんの通った御田小学校を、少し後に卒業した。

 水上瀧太郎の「撒水車」は大正11年11月号の『三田文学』に載り、概略こ んな話だ。 水上瀧太郎が三田の今の演説館の下、三軒並んだ福沢家の二階建 の貸家に住んでいた時のことで、隣は小泉信三さんのお母さん、反対の隣は小 山(完吾)さんだった。 元来は東京市が撒水することになっているのだが、 この町内だけは、水を撒く人足がいて水を撒く慣習になっていた。 その男が 値上げを要求してきた。 最初は、ご近所みんな反対していたのだが、次第に 軟化していき、結局は水上家だけが残ってしまう。 撒水人足は、自分の家の 前だけ、水を撒かなくなった。 水上瀧太郎には、正義感というか、節を曲げ ないで損する性質があった。 一筋の往来に、ただ一カ所白い土が残り、埃が たって、前の今川焼屋のおじいさんが大柄杓で溝の水をしゃくっては、こちら に来て撒いたりする。 仕方がないので、ゴム管を買ってきて、自分で撒くと、 巡査に止められた。 水道の水を往来に撒いてはいけないというのだ。 二年 二カ月、水上を悩ましたこの問題は、青山への引越で解決する。 次の人が払 ったのか、そこを通ると、白い土はなくなっていた。

 水上瀧太郎は書く。 「しかし自分の本当の心は、今もなお自分の取った態 度を是認している。それは世の中を渡るには損かも知れない。損は損でも、こ の世の中になくてはならない精神ではないだろうか。すべてが泥濘にまみれて、 まみるるに任せる時、御都合をしりぞけ、妥協を廃し、たとえ自分の心は寂し くとも、乾いた土として残りたいのである。」

私が福沢諭吉に入門した本(もと)2010/01/03 07:53

 昨年の11月28日と12月12日の二回にわたって、「伊藤正雄編『明治人の 観た福沢諭吉』を読む」という読書会があった。 福澤諭吉協会の主催で、講 師は山田博雄さん(中央大学法学部兼任講師)、毎年(1996年から)『福澤諭吉 年鑑』に「研究文献案内」を書いている方だ。 昨年7月に復刊された伊藤正 雄編『明治人の観た福沢諭吉』(慶應義塾大学出版会)は、はじめ1970(昭和 45)年9月に伊藤正雄編『資料集成 明治人の観た福沢諭吉』(慶応通信)とし て刊行された。 私は、この古い方の本を持って、読書会に参加したのだった。

 私が福沢諭吉の面白さを知ったのは、伊藤正雄さんのおかげだった。 高校 生だった1958(昭和33)年、慶應義塾創立百年の年に出版された甲南大学の 伊藤正雄教授の『福沢諭吉入門―その言葉と解説』(毎日新聞社)を近所の本屋 で見つけ、その文章と考え方の面白さに魅せられてしまった。 福沢に興味を 持った私に、父はちょうど刊行され始めた『福澤諭吉全集』を買ってくれた。  その後『福澤諭吉全集』の読者に送られて来た案内によって、福澤諭吉協会に 参加させてもらうことになる。 伊藤正雄さんは福澤諭吉協会「土曜セミナー」 の第2回に「『福翁百話』に見る福澤晩年の思想」を話され、その後も土曜セ ミナーできちんと背筋を伸ばしたお姿をお見かけした。 しかし、ついにお声 をかけて、福沢入門のそも馴れ初めについてお話することが出来なかったのは、 いま思えばまことに残念だった。

 まだいわゆるわら半紙に近い用紙の、黄色くなった『福沢諭吉入門―その言 葉と解説』を読書会に持って行き、これもぜひ復刊してほしいと、慶應義塾大 学出版会の今度の本の編集担当者に話したのだった。

伊藤正雄さんの福沢研究2010/01/04 08:04

 今回の読書会に参加するに当って、伊藤正雄さんの本を書棚から出してみた。

『福沢諭吉入門―その言葉と解説』(毎日新聞社)1958(昭和33)年

『福澤諭吉論考』(吉川弘文館)1969(昭和44)年

『資料集成 明治人の観た福沢諭吉』編著(慶応通信)1970(昭和45)年

『口譯評注 文明論之概略 今も鳴る明治先覺者の警鐘』(慶応通信)1972(昭和47)年

『現代語訳―学問のすゝめ』訳著(社会思想社・現代教養文庫)1977(昭和52)年

『福沢諭吉―警世の文学精神』(春秋社)1979(昭和54)年

 読書会に行く電車の中で、『福沢諭吉―警世の文学精神』をパラパラやってい て、わかったことが二つあった。 一つは、伊藤正雄さんが1902(明治35) 年に大阪北浜で生れた、その家が福沢が学んだ緒方洪庵の適塾の東、ほんの 3,40メートル離れた並びにあった。 父(養父)徳三は、嘉永6年生れ、名古 屋から東京に遊学、明治2年に慶應義塾や攻玉社で洋学を学んだと履歴にあり (伊藤正雄さんが慶應義塾に調べてもらったところでは名簿になかったそう だ)、代言人(弁護士)となって長崎で開業した。 明治12,3年頃、後藤象二 郎が高島炭坑経営にからむ債務で、英国商人に訴えられた際に、その弁護に当 り、当時後藤から来た手紙が家に残っている。 福沢は後藤の苦境を斡旋して、 三菱に高島炭坑経営を肩代わりさせたから、その問題をめぐって、伊藤正雄さ んの父上と福沢の間に一脈の因縁があったことになる、という。

 もう一つは、国文学が専門の伊藤正雄さんが、なぜ福沢研究に入ったか、と いう問題だ。 1927(昭和2)年に東大の国文科を出て、神宮皇學館の教師に なったが、担当科目の中に国文学史があった。 明治の文学を講ずる必要上、 まず手初めに『福翁自伝』と『文字之教』を読み、その闊達自在な表現力と、 平明達意主義の文章観とに魅せられた。 それ以来、明治文学史の中では福沢 諭吉に特に多くの時間を割くよう心掛けた、というのである。 私が『福沢諭 吉入門―その言葉と解説』を読んで、福沢に魅せられたのと、まったく同じポ イントだったことになるが、それが伊藤正雄さんの著書だから、当然と言えば 当然なのだった。

「The福澤諭吉でなく、福澤諭吉s」2010/01/05 07:28

 山田博雄さんは、伊藤正雄編『明治人の観た福澤諭吉』に収録された27人、 46篇の文章の中から、福地桜痴、中江兆民、田口鼎軒、徳富蘇峰、山路愛山、 井上哲次郎、高山樗牛、鳥谷部春汀、植村正久、内村鑑三、岩城準太郎、正宗 白鳥と、付録にある南方熊楠を取り上げた。 福沢が新しい文体を創始したこ とは、多くの人が認めている。 「拝金宗」という批判が目立つのには、時代 の価値観が出ている。

 山田博雄さんは「The福澤諭吉でなく、福澤諭吉s」と、まとめる。 福沢 の思想は、状況や対象で変ってくる(丸山真男のいう「状況的思考」)。 大枠 で、福沢はつぎの三つで解ける。 「民心の改革」(文体を含む)…ポーンと投 げて、行き過ぎると、反対に大きく振る。 「始造」の精神。 「科学≒実学 (事実にもとづいて理論化)」…情報を集める能力が抜群。

 時代が変わると、文体も変わる。 『学問のすゝめ』第五編の中でも、変え る(わかりやすくと、学者向け)。 場合に応じて、こうするということに通じ る。 したがって、福沢を文章の一部だけ引用したり、一面だけ取り上げて、 福沢の思想の全体を判断すると、見誤る恐れがある。 それは伊藤正雄編『明 治人の観た福澤諭吉』を継ぐものである市村弘正 編集・解説『論集・福沢諭吉 への視点』(りせい書房・1973)を見ても言える。 今日の論文にも散見され る福沢への予断と偏見、それにもとづく見当違いの解釈、疾うの昔に終ってい るのに、まだ取り上げている議論がある。