龍彦の「澁澤」は、栄一の本家筋2010/02/26 06:53

 野次馬、澁澤龍子さんの写真が見たくなって、図書館で新潮文学アルバム 『澁澤龍彦』を借りて来た。 写真館で撮ったらしい「昭和45年、前川龍子 との結婚記念写真」があった。 背中をつけ合って坐った「昭和37年夏、千 葉の海岸にて、矢川澄子と」という小さな写真もある。 北鎌倉山ノ内、龍彦 の墓のある浄智寺山門から振り返れば見えるという薄いペパーミント・グリー ン南京下見(龍彦の好み)の澁澤家の外観もわかった。

 この本の種村季弘が書いた「評伝」で、澁澤龍彦の「澁澤」が澁澤栄一の「澁 澤」の本家筋だと知って驚いた。 澁澤栄一の子爵家と区別するために、本家 は「大(おお)澁澤」と呼ばれていたという。 そういえば、深谷血洗島の澁 澤栄一の生家を見に行ったことがあるが、その家は「中ン家」と呼ばれていた。  龍彦(本名龍雄)の曽祖父宗助は、横浜で最初の生糸問屋を興し、巨財をなし て一時は妙義山までもが一族の地所だったという。 血洗島に二階で自転車を 乗り回せるほどの「馬鹿でかい」屋敷を建てた。 祖父の五代宗助が、この財 産を女道楽、相撲道楽ですっからかんに蕩尽した。 五人の子供は大学へやり、 学歴は残った。 長男長康は早稲田を出て、大同毛織のエリート社員。 次男 は東京帝大工学部卒、横山家の養子となり、清水建設の重鎮。 三男武が龍彦 の父、四高から東京帝大法学部を経て武州銀行に入った。 官庁、大銀行の出 世街道をわざわざ避けるように地方銀行に入ったのには、大正リベラリストの 面影があるという。 お勤めよりは、登山、歌舞伎、相撲、野球、写真とすこ ぶる多趣味な道楽に入れ揚げ、晩年は競馬に凝り、横浜の場外馬券売場で脳溢 血で倒れ、病院に運ばれたが亡くなったのだそうだ。

 武州銀行(埼玉銀行→あさひ銀行→りそな銀行)では川越副支店長(今も幸 町に建物が残っている)を務めたから、龍彦は4歳まで川越市内に住み、父の 丸の内転勤後は、滝野川区(今の北区)中里で育った。

 父武の下、四男茂という人物も面白い。 一高帝大コースを歩みながら、中 途退学して明大に入り、就職試験の面接で、入社後は趣味の狩猟、魚釣りを控 え目にしろと言われて、あっさり勤めを蹴って郷里の深谷に帰り、釣具店を開 くかたわら、一生を狩猟と川釣り三昧に暮らしたという。

コメント

_ 木下 ― 2010/02/26 09:00

飛鳥山の青淵文庫はリアルに近所ですw

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