同窓会の新年会で2010/03/01 07:04

 先日再放送で見た「ブラタモリ」の「秋葉原」で、交通博物館のあった場所 に、昔、万世橋駅という一大ターミナル駅があったことを知った。 東京駅の ような煉瓦造で、設計も同じ辰野金吾だとかいう話だった。 関東大震災で崩 壊したらしい。 あるビルの8階から旧万世橋駅のホームの残っているのが見 えるのだった。 そのビルに心当たりがあった。 秋葉原電気街の起源が、戦 争直後、靖国通りに並んだ進駐軍払下げなどのラジオ部品を売る露店だったと いうことも、知らなかった。

 2月26日に、志木高の同窓会「志木会」の新年会(例年、学校行事が一段 落するこの時期にある)が、「肉の万世」の8階ティアラ・ホールで開かれた。  歓談の時間になったので、舞台の裏から覗くと予想通り、タモリが見たのと同 じ旧万世橋駅のホームが見えた。 万世社長で志木会会長の鹿野さんにその話 をしたら、万世さんも初めは鹿野無線(「無線」は当時のトレンド)という電気 屋さんだったのだそうだ。

 同じテーブルになった3年下の幹事連中4人が相談して、何か作文をしてい る。 「少しくさいかな」とか、言っている。 同級生のお嬢さんの結婚式に 送る電報の案文だった。 その同級生は亡くなっているのだという。 この期 は毎月六本木で会合している親密な期なのだが、その会にずっと、亡くなった 同級生の奥さんが参加しているのだそうだ。 学生時代の旦那の話などをみん なから聞き、紅一点の常連になっているという。 幹事連中は自分達の女房な ら絶対来ないだろうなどと言う。 そういう曰くのある祝電だった。 ちょっ と、いい話。

第500回を迎えた落語研究会2010/03/02 06:34

 3月1日、三宅坂国立小劇場のTBS落語研究会は、記念すべき第500回を迎 えた。 この第五次落語研究会に、昭和43(1968)年3月14日の第1回から 定連席を持って通い続けてきた私にとっても、感慨深いものがある。 42年前、 26歳だった。 忘れもしない、五反田の駅の通路に貼ってあった、会の発足と 第一期定連席券発売のポスターを見たのが発端であった。 当時は品川中延の 生まれ育った家にいて、池上線の荏原中延から、結婚前の家内を目黒の家に送 って行った帰りのことだった。

 最初は、桂文楽(八代目)、三遊亭円生、林家正蔵(八代目)、柳家小さん(五 代目)、三遊亭円遊(西小山で幇間をした)が常連メンバーで、第1回などは 何と柳家さん八(入船亭扇橋の前名、扇橋は第1回と第500回に出たことにな る)と去年死んだ三遊亭円楽が前座を務めた。 扇橋以外、みんな死んだこと になるが、ほかにもこの間落語研究会を支え、盛り上げた金原亭馬生(十代目)、 古今亭志ん朝、桂文朝、東京の名人たちが消えた穴を埋めた、上方からの桂文 枝、笑福亭松鶴(六代目)、桂枝雀、桂吉朝なども死んでしまった。

 第500回の演目は、

「千早ふる」   柳家 三之助

「三人旅」    柳家 三三

「明烏」     柳家 さん喬

      仲入

「長屋の花見」  入船亭 扇橋

「小言幸兵衛」  柳家 権太楼

なぜか、五代目小さんの一門ばかりになった。 実は第1回では、「千早ふ る」を柳家さん八(入船亭扇橋)、「長屋の花見」でなく「花見の仇討」を三遊 亭円楽、「小言幸兵衛」を三遊亭円遊、「三人旅」を林家正蔵、「明烏」を桂文楽 が演じていた。 柳家小さんは「猫久」、トリの三遊亭円生は「妾馬」だった。

三之助の「千早ふる」2010/03/03 07:01

 「千早ふる」は、入船亭扇橋(柳家さん八)が第1回に演った噺であり、三 之助自身も前座を務めたご褒美に初めて落語研究会に出た時(第377回1999 年11月19日)に演った噺だった。 でも私の責任ではない、と三之助。 昨 日書いたように、プロデューサーが第1回を踏まえたプログラムを組んだから だ。 三之助が5時半に楽屋に入ると(開演は6時半)、もう仲入後が出番の 扇橋が来ていて、楽屋で二人きりになった。 扇橋が第1回の時の思い出話を して、いろいろのことを憶えているのだけれど、弁当が出たかどうかだけが、 どうしても思い出せない、と。

 「世の中には知らないことまで教えてくれる人物がいる」と、「千早ふる」に 入った。 あまっちょのガキが、近江屋さんに行儀見習いに行って、同じ年頃 のお嬢さんと、「百人一緒」〈ももしきや古き軒端にかけざらし〉とかいう歌の あるあれをやっている。 いい男、在原業平のあの歌「千早ふる」のワケを訊 かれたので、絵解きをしてもらいたいと、金さんがやって来る。 造作もない、 朝飯前というくだんの人物、「竜田川!」と大声で呼ばわってみて、相撲取に行 き着く。 女を絶って、五年で大関に出世、願ほどきに吉原へ。 頃しも弥生、 花魁道中、三番目の千早大夫という花魁、「夜中のはばかり」目も覚めるよう。  その千早に振られ、妹女郎の神代大夫にも振られて、相撲を辞め国の信州の山 奥に帰った竜田川、五年で立派な豆腐屋になった。 と、快調に進めた三之助、 「からくれないに水くぐるとは」の「水くぐるとは」の説明を抜かしてしまっ た。 「とは」の解釈の中で「井戸に飛び込んじゃった」と言ったけれど。 記 念すべき第500回の開口一番、やはり、かなりの緊張感があったのだろう。

 次に出た三三は同じく小三治の兄弟弟子、落語はお客の頭の中に舞台がある から、別に「飛び込まなくてもいい」、「三之助、まもなく真打」と言った。 仲 入後に出た入船亭扇橋は、「千早ふる」は易しいようで難しい、三之助があんだ けやれるのは大したものだ、さすが小三治の弟子だ、小三治は会長になった、 映画にも出て(私も出た)、焼鳥や焼肉・ホルモン焼をごちそうしてくれる、お ごってくれるのがいい所だ、とフォローした。

三三の「三人旅」2010/03/04 07:02

 三三、北海道の仕事でも日帰りになった。 噺が終ると、「さあ、お帰り」「走 れば、間に合う」と言われる。 移動に8時間、しゃべり15分ということも ある。 「文公ーッ、文公ーッ」と、「三人旅」に入る。 どこかへ行った文公 は、畑の真ん中でしゃがんでいた。 〈広々と心のどかな野ぐそかな〉 「落 語研究会で、そんなこと言うな」。 三人は初旅、箱根八里の箱根山にかかる。  「馬、やんべかー」「ちっかってくだせえ」という馬子との値段の交渉になる。  次の宿まで「ヤミ」でと符丁でいうのを、「ツキヨ」にしろとか、わからないこ とを言う。 そうして乗った馬の内、終いの一頭が「びっこ馬」だった。 こ ういう馬はおとなしいだろうと聞くと、大変な駻馬で、棹立ちになり、パッパ カパッパカ駆け出すことがあるという。 しょっちゅうあることではないだろ うと聞くと、のべつではない、日に一度だ、とからかわれる。 道中は続く。

 「びっこで、めっかち」などと刺激的な言葉も入れていたのだけれど、三三 には悪いが、ちょうどこのあたりで眠くなってしまった。 噺自体も、とくに ストーリーのない、地味な噺なのだ。 師匠の師匠、小さんは「二人旅」とい うのをよく演っていた。 村を出るともう醒めている「村雨」という酒を飲ん だりする噺だ。 あれも、坦々とした、あまり面白くない噺だった。 三三、 健闘も虚しくという結果になったのは、「三人旅」を担当させられた不運だろう。

さん喬の「明烏」2010/03/05 07:08

 田所町二丁目の伊勢屋の若旦那、時次郎が、日がな一日、本を読んでいる。  町内の稲荷祭に行って、子供たちに混ざって太鼓を叩き、手の皮を剥いだり、 お強(こわ)の食べっこをして、子供たちが五杯なのに七杯までがんばり、お 煮染も三杯おかわりをした。 「十九だよ」と親父さん、遊びを知らないので は、商売の切っ先が鈍ると心配して、町内札付きのワル、源兵衛と太助に頼む。  大層流行るお稲荷さんのお籠もりということにして、吉原へ連れて行ってもら う。 大門(おおもん)を変った大鳥居、引手茶屋をお巫女の家、女将さんを お巫女頭ということにして…。 部屋着の左で張肘をして、右で褄を取った花 魁が、厚い草履で廊下をバターン、バターンと歩けば、どんな堅物でも、ここ が吉原だということが分かる。 「こんな地獄に」と泣く時次郎に、源兵衛は 「みんなは極楽と言う、泣く所じゃあなくて、喜ぶ所」

 吉原には為来りというものがある。 さっき通った大門の所に、髭のおじさ んが三人いた。 入った人数や人相風体を帳面に付けていて、一人で帰れば、 怪しい胡散臭い野郎だと、荒縄でぎりぎりに縛って留め置かれる。 何年もだ、 こないだは慶應三年から留め置かれたのがいた。 世の中には付き合いという ものがある、大引けになれば大門まで送って行くからと言われて若旦那、一杯 やるのに付き合い、「どんどん飲んでください。私はこれでけっこう楽しゅうご ざいます」。 遣り手のおばさんなるものが、引っ張ると「あなた、こんな所で 働いていて、恥しくないんですか」 この店のお職、No.1、紫という花魁が、 そんな若旦那なら出てみたいという、お見立て。

 結構なお籠もり、次の間付き、甘納豆、朝の甘みは乙、起きて、起きて、「起 きなんして」。 「花魁は、口では起きろといいますが、私の足をギューッとか らめて、動けないようにしている」

 さん喬が軽妙、楽しげに演じた「明烏」、日がな一日、本を読んで、ブログに 書き綴り、かつて商売の切っ先は鈍りっぱなしだった、誰かさんにとって、苦 い良薬となったのであった。 あはははは。