福沢の1862年・パリ2010/05/01 06:59

 鷲見洋一さんが、歴史の共時的記述の面白さの例をいくつか挙げている、そ の中に福沢が登場する。 「オスマンが改造中のパリを訪れた福澤諭吉を主人 公にして、「近代」というものの表象をたった数カ月のスパンから抽出してみる。 マネ、ボードレール、福澤が同時にパリの街を歩いているという面白さ、写真の 流行とオッフェンバック「パリの生活」と『種の起源』仏訳が出そろうという 珍妙な風景。」と。

福沢諭吉がパリへ行ったのは、文久2年、1862年の遣欧使節竹内下野守保徳 一行の「傭通詞」としてだった。 パリは、ナポレオン三世による第二帝政も ちょうど十年、皇帝とセーヌ県知事オスマンによって、大通りの建設や下水道 整備など中心部の大規模な都市改造計画が、着々と進行中だった。 国外での 戦争によって巨額の出費を重ねてきていたものの、その刺激もあって、産業界・ 経済界の近代化は加速度的に進みつつあり、パリにはブルジョア的繁栄と平和 な気分がみなぎっていた。 『悪の華』(1857)の詩人ボードレールが、はや くも鋭い批評をこめて歌い、この1862年のユゴー『レ・ミゼラブル』のあと に、マネやゾラなど新しいエコールの画家や文人たちが活躍し始める。

このあたりのことは、昨年の福澤先生ウェーランド経済書講述記念の講演会、 前田富士男さん(慶應義塾大学名誉教授・アートセンター前所長)の「モダン・ デザインへの眼差し―美術史学からみる福澤諭吉」を聴いて<小人閑居日記> に5日にわたって書いている。 「近代への変革期にヨーロッパへ」(2009. 5.18.)、「「散歩・乳母車」から近代をみる」(5.19.)、「福沢が近代をみた「写 真・椅子」」(5.20.)、「福沢とプロダクト・デザイン」(5.21.)。 前田富士男 さんの話は、9月19日の福澤諭吉協会の土曜セミナー「西洋近代美術と福澤諭 吉―〈考える人〉とデザインと―」も聴き、9月23日の日記「「考える人」の ポーズ」を書いた。

 4月27日、三菱一号館美術館で「マネとモダン・パリ」展を見たが、それは ちょうど福沢のパリと同じ時代を対象にしていた。

「マネとモダン・パリ」展と福沢諭吉<小人閑居日記 2010. 5.2.>2010/05/01 19:52

 福沢諭吉がパリへ行った文久2年・1862年、エドゥアール・マネはまさしく パリにいて、たくさんの絵を描いていた。 「マネとモダン・パリ」展には、 1862年の作品が(頃や推定、描き始めの年も含め)何枚もある。 「テュイル リー公園の一隅」「気球」「街の歌い手」「大道芸人たち」「少年と犬」「ジプシー たち」「小さな騎士たち」「帽子とギター」「扇を持つ女(ジャンヌ・デュヴァル の肖像)」「オランピアのための習作」「オダリスク」。 テュイルリー公園は、 遣欧使節団一行が宿泊したホテル・ドゥ・ルーヴルのすぐそばにある。 満27 歳で、好奇心旺盛な福沢諭吉が、テュイルリー公園を見物に行き、マネが絵を 描いている横を通ったと想像することは、すこぶる楽しい。

 「モダン・パリ」は、「オスマンのパリ」と「パリ生活の光と影」として解説 されている。 長らくイギリスで亡命生活を送ったルイ・ナポレオン(ナポレ オン三世)は、近代化を成し遂げたロンドンの都市インフラに感銘を受け、パ リにも同様な革新をもたらしたいと強く望み、クーデターで第二帝政の確立に 成功すると、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマン男爵に命じて、パリの大改造 に着手する。 「マネとパリ生活」の章には、冒頭にアンリ・レーマン(「に帰 属」と出品目録にある)「セーヌ県知事オスマン男爵」の肖像があり、建設中の ボン・ヌフを始めとする改造中のパリの情景、駅や聖堂、劇場、万国博覧会の 建築などの透視図や設計案が展示されている。 オスマンによって大通りや公 園、ホテルや駅といった公共施設、オペラ座や劇場などの歓楽施設も整備され、 そこは都市生活者たちの華やかな娯楽と社交の場として発展していく。 それ はまさしく、福沢諭吉ら遣欧使節団一行が目にしたパリの姿であった。 ガス 燈の光やモニュメントのイルミネーションが街中を照らし出す一方で、帝国主 義の台頭による対外戦争の継続と社会格差の増大による不安は、都市に社会主 義思想の拡大をもたらしたと、展覧会の「パリ生活の光と影」は説明する。

きん歌の「崇徳院」2010/05/03 22:07

 4月30日は、第502回の落語研究会だった。 ようやく暖かくなって、天 候が本来に戻った、と言い交わすような日であった。

 「崇徳院」     三遊亭 きん歌

 「甲府い」     柳亭 左龍

 「ねずみ」     立川 志の輔

       仲入

 「蛙茶番」     春風亭 一朝

 「粗忽長屋」    柳家 小三治

 新年度の初回、志の輔と小三治、きん歌曰く一人でもチケットの取り難いの が二人も出て、満員札止め、大入袋が出たそうだ。 その熱気と緊張感が、当 然ほかの出演者にも伝わり、すこぶるつきの素晴らしい会になった。

 きん歌は出囃子が「草競馬」、ハカマを穿いて出た。 ビリケン頭、ちょっと 中村獅堂に似ている。 師匠圓歌の所に住み込んでいた頃、弟子それぞれ「担 当」があった、美味しい海苔を買ってきたので海苔担当とか、おかみさんに決 められた。 自分は電気担当、たまたまラジオの電池を取り替えたのでそうな ったのだが、おかげでビッグカメラのポイントが38,000円もたまった。

 「崇徳院」、二十日前、上野の清水様の茶店で出会ったお嬢さんへの、若旦那 の恋わずらいを、その幼馴染でもある出入りの熊さんが聞き出し、「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の」という短冊を頼りに、探し歩く噺。 きん歌は、見つけ たら三軒長屋をやる、借金は棒引きにする、見つからなければ殺害の下手人と して訴える、三日以内に探せという設定にした。 「水のたれるような、いい 女」を「水の洩れるような」と熊、森末慎二(クラシアン)じゃない、と。 人 の集まる湯屋や床屋を探して三日目、三十七軒目の床屋で、賞金目当てでお店 のお嬢さんの恋わずらいの相手を探す男にめぐり合う。 お互いに、自分の方 に連れて帰ろうとして、取っ組み合いとなり、床屋の鏡が割れる。 心配する な「割れても末はあわんとぞ思ふ」。 きん歌、安心して聴いていられる、トッ プバッターとしては上々。

左龍の「甲府い」2010/05/04 10:17

 5月2日、3日の日記の発信時間が変則的になったのは、実はその両日、諏 訪神社の御柱祭に行っていたからだった。 それで「甲府い」を通り、現地で 一緒になった4歳の坊やが「甲府い、おまいり、がんほどき」と唱えていた。  実は御柱祭に行くことになったのも、落語に関係があったのだが、御柱祭につ いては、第502回・落語研究会のあとで書くことにする。

 甲府の在で、伯父伯母に育てられた善吉、一旗挙げるべく、書置きを置いて、 身延山に願掛けし、江戸へ出て来た。 浅草寺の人ごみで、ドーンとぶつかっ たのが、きんちゃっきりで、一文無しになる。 翌朝、腹を空かして豆腐屋の 店先の、湯気の上がっている卯の花に手を出し、小僧の金公に頭を叩かれる。  主は事情を聞いて、同じ法華の宗旨と知り、飯を食わせ、たまたま都合で辞め ることになっていた金公の代りに、善吉を雇うことにする。 主夫婦には娘の お花がいる。 この善吉、くるくるよく働く男で、重い荷物をかつぎ、この店 独特「生揚げ」を言わない「豆腐い、ごまいり、がんもどき」と売り歩く。 人 間に愛嬌があり、売り先の洗濯の水を汲んだり、泣く子供に懐の一文菓子を渡 したりするので、かみさん連中や子供たちにも、めっぽう評判がよく、店の商 いも繁昌する。

 そして三年、主がおかみさんに、二十歳になったお花の婿に善吉はどうだと 切り出すと、母親はもうお花に聞いてあった。 お花は、お父っつあん、おっ 母さんにおまかせしますと、真っ赤になって、畳にのの字を書いた、という。  主が、すごく恐い顔で「善公、こっち来い」と呼び、お前さえよければと、話 をする。 「どうぞ、よろしく」と言われて主、小さな声で「せがれや」。 左 龍は熱演、一生懸命にやっているのがよく伝わったが、このあたりが特によか った。

 幸せな夫婦になったが、親の心配は善吉の働き過ぎ。 少し休んだらどうだ、 花見、旨い物、寄席で落語なんかどうだと言われ、善吉はお父っつあんにお願 いがある、国に帰って墓参り、伯父伯母に報告したい、と。 お花も連れて出 掛ける若夫婦に、珍しいこともあるもんだ、どちらへと訊く客のおばさんに善 吉が売り声で言う、4歳の坊やも(「日本語で遊ぼう」でだろう)知っていた台 詞は何でしょう?

志の輔の「ねずみ」2010/05/05 07:00

 志の輔は、「歌舞伎座の最終日だというのに」「ゴールデン・ウィークもこれ さえなければ、長い旅行に出かけられたのに…。まあ、ほかに行くところもな かったのだろうが、よく来てくれた」と。 各地の落語会での打上げについて のマクラ、以来酔っ払いが嫌いになったという、前に聴いたことのある函館「三 月・帆立の海渡り」をやったあと、青森での話になる。 津軽三味線の名手が 来て、三十分間、すごい迫力で弾いた。 なんでそんなに一生懸命弾くのか訊 いたら、寒いから、ちんたら弾いていると、凍え死ぬ、と。 一方、沖縄では 「カ、タ、ン。 カ、タ、ン」と弾く。 一生懸命弾くと、暑いので倒れてし まう。 ただ、客が寝てしまうので時々、突然「アイ、ヤヤー」と大声を入れ る。 そうした、「人」も旅の楽しみの一つだ、と「ねずみ」に入る。

 「ねずみ」の物語は、2006年4月30日の日記に歌丸のやったのがある。 志 の輔らしいのは、客引きに出ていた子供が、こないだ小さな「ねずみや」を見 落した客が八戸まで行った、とか、「ねずみや」は、趣もあるが、傾きもある、 といった所だろうか。 左甚五郎が彫ってくれた「福ねずみ」が動き出し、 「ねずみや」は大繁盛、一部屋、一部屋建て増しし、「とらや」を抜いて、仙台 一の大きな宿屋になったが、「質問。それが一番くやしい人は誰でしょう?」と いうのも、志の輔調。 「とらや」が飯田丹下という彫師に頼んで彫ってもら った「虎」ににらまれて、「ねずみ」が動かなくなる。 びっくりして、「ねず み」が動かなったとたんに、おやじさんの腰が立った。 左甚五郎がやって来 て、わしはねずみの父だ、ねずみの言うことを聞いてあげると、ねずみに話し かける。 「わしが見るところ、あの虎にはゆとりや風格がない。今聞く、お 前には魂を入れた,命を吹き込んだ。それなのにどうして、なさけないぞ、ねず み」「これはどーも、お久し振りで、毎日楽しくやっています。虎…、虎ですか、 あれ。私はてっきり、猫だと思いました」

 ここに一番気を配っているという志の輔の「ねずみ」、見事にしゃべったので あった。