「皇后ウージェニー」その栄華と亡命2010/06/21 06:55

 ナポレオン3世は、幼少から喘息だったので、不潔極まりなかったパリを、 きれいな空気と水道下水道を備えた清潔な街にすべく、セーヌ県知事オスマン に命じて、大規模な都市改造計画を始める。 皇后ウージェニーは、その知性 で、しばしば重要な問題で皇帝の相談に乗り、不在の折は摂政も務めた。 美 貌で貴族的気品あふるるウージェニーは、ファッションリーダーでもあった。  ドレスの豪華さや伝説的な宝石は、その肖像画に残されている。 慈善活動や 女性の社会進出にも関心があったという。 今なお世界の文化的中心であり続 けるパリの、近代的な改造と文化面の裏打ちに、ナポレオン3世と皇后ウージ ェニーの存在を、忘れることはできない。 「シック」という表現は、ウージ ェニーの宮廷や第二帝政を表す言葉だったらしい。

 ウージェニーは、女好きのナポレオン3世の、しばしばの浮気に悩ませられ るが、29歳で待望の皇太子ルイを産む。 ナポレオン3世は、クリミア戦争、 イタリア統一戦争と侵略戦争をつづけ、メキシコ遠征で落ち目になり、1870 年の普仏戦争ではセダンの戦いに敗れて捕虜となった。 ウージェニーは、皇 帝がなぜ自殺しなかったかと嘆いたという。 一家はイギリスに亡命し、その 王室や国民に丁重に扱われ、ウージェニーは、家族としての束の間の幸福を味 わう。 1873年、ナポレオン3世が病死、1879年にはイギリスのために南ア フリカのズールー戦争に出征した息子ルイが23歳で戦死する。 その時53歳 になっていたウージェニーは、以後、40年余を亡命先のイギリスで生きて、94 歳で亡くなる。 晩年、彼女が暮らしたハンプシャーのファーンブローの別荘 から見える聖マイケル修道院に、三人で眠っている。

遣欧使節団の皇帝・皇妃との謁見<2010. 6.22.>2010/06/21 21:47

 5月1日の<小人閑居日記>「福沢の1862年・パリ」にも書いたが、福沢 が竹内下野守保徳遣欧使節団の一員としてパリに行ったのは、ナポレオン3世 の第二帝政ちょうど十年目の文久2年、1862年のことだった。

 芳賀徹さんの『大君の使節』(中公新書)で、その時のことを見てみよう。  4月13日(文久2年3月15日)の日曜日、使節一行はチュイルリー宮でナ ポレオン3世に謁見した。 使節一行といっても全員ではない。 「御目見(え) 以上」(旗本)の資格のある者に限られたから、福沢たち下っ端の随員は残念な がら参加できなかった。 午後二時からの謁見式のために、宮廷から六輌の馬 車がルーヴル・ホテルに迎えに来た。 その内、特に竹内首席全権、および松 平、京極両全権のためには美々しく飾り立てた六頭だての馬車だった。 その ような外交儀礼(プロトコル)に注意して、それによって待遇程度を評価する ことができたのは、福沢だけだったと、芳賀さんは指摘している。 三使節は、 狩衣(かりぎぬ)、烏帽子に鞘巻の太刀という古式ゆたかないでたち、柴田貞太 郎以下同行の者も相応の伝統的礼服だった。

 皇帝、皇妃、そのときまだ6歳の皇太子ウージェーヌ(ルイ)が玉座につき、 そのまわりに側近の廷臣たち、トゥヴネル外相が並んでいた。 竹内使節は日 本語で皇帝への挨拶を申し述べ、将軍からの国書を手渡した。 ナポレオン3 世からは「皆さんのフランス滞在が皆さんにわが国民の偉大さについて正当な 観念を与えてくれることを、私は信じて疑いません。皆さんがこの地でお受け になるもてなしと享受なさるであろう自由とは、お客の歓待(ホスピタリティ) ということが文明国民の第一の美徳の一つであることを、きっと皆さんに納得 させてくれることでしょう。」などという挨拶の言葉を賜った。 外相から説明 や意見を聞いた上での、徳川幕府と攘夷派など一般日本人の、在日欧米外交官 に対する接遇態度への、あからさまな皮肉だったが、どれだけ日本使節に通じ たかはあやしいと、芳賀さんはいう。

 芳賀さんが残念がっているのは、この時36歳だった「容貌のみならず、撫 で肩の美しさと全身に溢れる優雅さと気品で天下一品とうたわれた」美妃ウー ジェニー・ド・モンティホに、使節の誰もが注目しなかったことだ。