唐招提寺金堂の平成大修理と興福寺国宝館2010/06/25 04:26

 2000(平成12)年から十年間かけて、昨年10月に完成した唐招提寺の金堂 の平成大修理、キンキラキンになっていたら、いやだと思っていたが、杞憂で あった。 阪神大震災時に、柱の内倒れ、組物の乱れが指摘されての大修理、 全部を解体して、組み直したというが、まったくわからない。 36本だったか の円柱は、1本だけを取り替えたそうだが、言われて見て、ようやくわかった ほどである。 唐招提寺は、気持いい寺だ。 今回、御影堂や鑑真和上御廟な どの奥の方も時間をかけて拝見して、その気持を強くした。

 御影堂になっている建物は、南都興福寺の旧一乗院門跡の宸殿遺構を、森本 孝順長老時代の1964(昭和39)年、精密に復元移築した古建築だそうだ。 興 福寺は廃仏毀釈の時、最大の被害を受けた寺と聞く。 今度の旅では、興福寺 国宝館も一つの目玉だった。 阿修羅像を見た。 東京国立博物館平成館で長 蛇の行列ができる大評判となり、九州国立博物館も巡って、奈良に帰ってきた 阿修羅像は、八部衆立像の一つとして、ひっそりと仲間内に納まっていた。 奈 良の人々は、今回の大騒ぎをどこ吹く風と思っていたらしい。 それはともか く、阿修羅像ほか国宝館の宝物が廃仏毀釈をくぐり抜けたのは、僥倖だったと いうほかない。

50年前の6月<等々力短信 第1012号 2010.6.25.>2010/06/25 04:27

 50年前の1960(昭和35)年6月、世の中がひっくり返るかと思われた。 日 米安保条約改定に反対する運動は、国民運動の様相を帯び、空前の盛り上がり を見せていた。 私は大学1年生、慶應・日吉でも異常な雰囲気で、ストライ キの是非を論議する学生大会が開かれ、連日デモに出かける級友もいた。 ノ ンポリ(非政治組)は後ろめたい感じだった。 10日(金)、アイゼンハワー 大統領訪日準備に来たハガチー新聞係秘書が羽田でデモ隊に取り囲まれ、米軍 のヘリコプターで脱出する事件が起き、慶應のデモ隊は偶然その前面に出て、 ハガチー氏の車の上に乗ったりし、ニュース映像に三色旗が翻った。 15日 (水)、約10万人が国会を取り囲み、夕方学生デモが国会構内に突入、警官隊 と衝突し、南通用門で東大生樺美智子さんが死んだ。 謹厳な学究、倫理学の 三雲夏生助教授が、頭に包帯を巻いて講義に出て来たのは、その翌日だったと 思う。

 安保改定反対デモには、東大2年の加藤紘一自民党元幹事長(父精三氏は自 民党衆院議員だから、親とは対立)、東大1年の江田五月参院議長、浪人中の 横路孝弘衆院議長が参加していて、樺事件の時、江田さんは国会に突入して警 官隊に押し出され、横路さんは警官に追われて必死で逃げたそうだ。(朝日新聞 6月15日朝刊、若宮啓文記者)

 辻井喬さんの大平正芳伝、『茜色の雲』(文藝春秋)を読んだ。 小説ではあ るが、巻末の参考文献を見ても、事実関係は押えていると思われる。 岸信介 総理大臣は16日(木)予定のア大統領来日を前にして、再三自衛隊の出動を 言い、赤城防衛庁長官がそれを拒絶し通したという。 池田派の幹部大平正芳 は、旧知の通信社記者や社会思想史助教授、警視庁警備幹部に接触して情報を つかみ、通産大臣だった池田勇人に報告する。 大平の脳裏には、イギリスの 外交官・歴史家E・H・カーがロシア革命について書いた文章があった。 ロ シア革命の成功は、十月革命に先立つ1905年、皇帝への請願に集まった群衆 に向かって近衛兵が発砲し、多数の死者が出た時に決まった、というのだ。 女 子学生の死を機に、池田派の幹部達は、米大統領の訪日中止の要請、18日夜半 の自然成立を待ち、絶対に自衛隊を動かさないこと、安保条約改定案の成立後、 政治の指導体制を一新することを決めた。 大平は翌日から、主に財界の指導 者に池田派の方針を説明し協力を要請するために奔走する。 19日(日)午前 零時、新安保条約は自然成立、23日(木)批准書が交換されたのを機に、岸首 相は退陣を表明した。