武蔵国が北朝の支配下にあった証拠2010/06/29 06:52

 深大寺釈迦堂での和尚さんの話で、もう一つ興味深い新知見があった。 深 大寺では2001(平成13)年に梵鐘を新しくしたのだそうだが、今は釈迦堂に 奉安されている旧梵鐘は、鎌倉時代後期の特徴をよく示していて、東京都内で は阿弥陀寺、真福寺に次いで三番目に古く、国の重要文化財に指定されている。  その銘に永和2(1376)年とあるが、「永和」というのは南北朝時代(1336~ 92年)の北朝、後円融天皇朝の年号だそうだ。 和尚さんは、これが当時の武 蔵国と関東一円が北朝の支配下にあったことを示している、というのだ。

 調べてみると、武蔵国では、建武中興に際しては足利尊氏が、南北朝時代に は高師直(こうのもろなお)が武蔵守に任じられ、守護は高、上杉、仁木、畠 山氏と転変したが、南北朝時代後期以降上杉氏の相伝するところとなった(室 町幕府では「関東管領(かんれい)」という職名となって、関東の政務を総管さ せるため鎌倉に設置。上杉氏の世襲)。 高師直といえば、『仮名手本忠臣蔵』 では浅野内匠頭長矩を苦しめる吉良上野介に擬せられるが、足利尊氏の室町幕 府初代の執事。 元弘の乱に続く内乱期に、足利尊氏に従い北条氏を滅ぼし、 建武中興政府の雑訴決断所衆となる。 建武2(1335)年、尊氏が関東で中興 政府に反旗を翻すと、軍を指揮して後醍醐天皇軍と戦い、幕府が開設されると 将軍家の執事となった。 のちに尊氏の弟直義らと対立し、上杉能憲の一党に よって弟師泰とともに殺された。 戦乱の時代らしい伝統破壊者的性格、行動 の人で、特に塩冶判官高貞の妻に横恋慕した件は、『太平記』に詳述され、『仮 名手本忠臣蔵』に登場することになった。