柳亭小燕枝の「意地くらべ」2010/09/01 06:53

 小燕枝、久し振りに見た。 若手だと思っていたら、ずいぶん、歳を取った。  五代目小さんの弟子、昭和20年の生れだそうだ。 黒紋付、羽織の紐は朱色。  吉原在住の由、まわりは450円では入れないお風呂屋さんばかり、入った時と、 もう一度金を取られる。 兄弟子で好きな人がいる、最近落語協会の会長にな った。

 八っつあんが、ワケを訊かずに、ウンと言って50円貸してくれ、と来る。  ワケはというと、世話になったご隠居に50円借りた。 恩になった金、恩金 だから、ひと月経ったら返そうと自分の腹に決めた。 今日は晦日、返さない と自分の心持に嘘をついたようだ、と。 その人は、手元にはないがと、何軒 か知り合いを回って、こしらえてくれた。

 隠居に返しに行くと、話を聞いて、楽な金があったら返してくれと言ったん で、そんな金は受け取れない、貸した人を連れといでと、木剣で張り倒そうと する。

 貸してくれた人も、私も受け取れない、お前の蒔いた種だ、七とこ回りして 私の下げた頭はどうしてくれる、その隠居を連れといで、おっかあ、薪割り!  そのおっかあが、無尽に当たったことにしたら、と智恵をつける。

 一日仕事になった。 隠居は、さっきはすまなかったな、倅に小言を言われ た、勘弁しておくれ、と言いながら、「あれッ、また出したな」、無尽、いくら の無尽だ、と厳しい。 でも、恩金だから、ひと月経ったら返そうと自分の腹 に決めたと聞いて、江戸っ子だな、気に入った、心持よく受け取ろう、ひと月 だな、一日の昼に貸したから、明日の昼に持っておいで。 ここで明日まで待 つと八っつあん、座ってな、畳の線から出るな、と隠居。 だが、一杯やりな がら待つか、倅、スキヤキの支度をしろ。 牛肉嫌いです。 決めたんだ。 死 ぬ気になって、食います。

 倅、二時間経っても、帰って来ない。 隠居が様子を見に行くと、倅は目の 前に立ったという人と、互いに道を譲らず、睨み合っていた。 早く使いに行 け、お父っつあんが、この人が動かないように、見届けてやる。

   ご一緒した方に、50円という金額から、落語のお金の単位と時代を訊かれた が、曖昧な返事をした。 田中優子さんの解説で、牛肉が出て来るのは明治生 れの岡鬼太郎作だからだと知る。

圓太郎の「へっつい幽霊」2010/09/02 06:37

 道具屋の店先の竃(へっつい)、3円で売るが、夜になると必ず引き取ってく れと言ってくるので、半値の1円50銭で引き取って、何度も儲かる。 中に は、ここへ泊めてくれ、お前(店主)がウチに行って寝ろ、俺はお前の女房と 寝るというのまでいる。 その内に、竃から幽霊が出るという噂が広まり、客 が来なくなる。 1円付けても処分したがっていると聞いた渡世人の熊、長屋 の共同便所で紙を落とした時に、通りかかった箸屋の若旦那で遊びが過ぎて勘 当された銀ちゃんと組んで、竃を銀ちゃんの所へ放り込む。 角が欠けて、十 円金貨で300円出て来る。 150円と50銭ずつを山分けし、銀ちゃんは吉原 で、熊は賭場で、あくる日の夕方までに全部使って、お互いに相手から借りよ うと考える。 竃から「金、返せー」と、幽霊が出る。 熊は、銀ちゃんの実 家へ行き、おっ母さんに事情を話して金貨で300円出してもらい、銀ちゃんに 潮時だウチに帰りな、と言う。

 熊の家に運んだ竃から出た幽霊に、熊は向う脛をかっぱらうぞ、死んでいる 人間がまた死ぬと、生き返るか、という(落語はシュールで、哲学でもある)。  話がぶっそうだと幽霊が、自分は左官の長五郎、「丁」ばかり張る博打好き、稼 いだ300円を円高で損をしてもいけないと、竃に塗り込んで、河豚に中って死 んだ話を聞いてくれたのは、初めてだ、落語家さんの気持がよくわかる。 300 円返してくれ。 熊がこれは俺の竃だ、出る所へ出て話をつけよう、というも のだから150円ずつ山分けすることになる。 幽霊は、半端な150円で極楽へ 行けるかなと考え、勝負することに。 死ぬ気になればと、そっくり「丁」に 張る。 負けた幽霊が「もう一丁」というのを、金がないのによそうじゃない か、と熊。 「幽霊だけに、けっして足は出しません」

正蔵の「魚屋本多」2010/09/03 06:32

 題名も聞いたことがなかった。 講談の演目だという。 「九十九久保に百本多」といわれ、徳川ゆかりの大名・旗本には大久保や本 多の姓が多い。 その本多の一つのお話。 本多隼人正(はやとのしょう)の 麹町の上屋敷の前で、年の頃二十二、三、身体の大きな、髭剃りあとの青い魚 屋が一休みしている。 暑い日だ、陸にも時化があるのかと、持っていた瓢箪 と朱塗の水飲みで、酒を飲む。 水飲みというのは、柄杓のような、身分のよ いお武家の持ち物で、戦場で水を飲んだりする道具。 二階から、それを見て いた殿様の顔色が変った。 用人の山辺藤太夫が、「これ、ギョバイニン」と声 を掛け、魚を買ってくれるのかと付いて行くと、ややあって殿様の御前に案内 をされた。 朱塗の盃で酒をご馳走になり、殿様は尋ねたき儀がある、その水 飲みはその方の物か、譲り受けたものか、と訊く。

 魚屋は、訳ありで、話が湿っぽくなるからと断わるのを、殿様は話せ、とい う。 自分が生れる前の、三十三年前、尾州小牧で徳川様と太閤様の合戦があ った。 家で手負いの若侍を一晩かくまったが、娘と仲良くなった。 もし子 供が出来たら、その証拠にと、水飲みを置いて行った。 十月十日経って、生 れたのが私、母は産後の肥立ちが悪く、鶯の声を聞く前に死んだ。 十七にな った時、爺様が父親は徳川様のお武家様に違いない、親子の対面をしてくれろ、 と言った。 十八で江戸へ出て、二十五で魚屋を持った。 お父っつあんに、 会いてえ。 話が湿っぽくなって、すみません、魚のお代を…。

 一同の者も聞け、と殿様。 天正十二年四月、その合戦で生き残ったのは、 それがし一人。 するってえと、お父っつあん。 控えよ、まだ親子の名乗り は出来かねるぞ。 お大名と魚屋、何言ってんだ、畜生、どれだけ俺がこの日 を楽しみにしていたか。 その内、必ず名乗りを致すから、許してくれ。

 後日、本多宗太郎と名乗れ、士分に取り立ててやろうと言われた魚屋、今さ ら自分は侍になれないが、六つになる宗吉という男の子がいて、朝からヤット ウの稽古なんかしている、この通りだ、倅を侍にしてくれる訳にはいかないだ ろうか、と言う。 殿様からは孫だ、分家して二百石を遣わそう。 魚屋は訊 く、御用人は何石で? 八十石。 こうして孫が旗本になったという人情噺を、 正蔵は一所懸命に物語って、好感の持てる高座となった。

諸田玲子さんの『軽井沢令嬢物語』2010/09/04 06:56

 軽井沢の万平ホテルには何度か泊ったことがある。 昭和40年代初め、銀 行の本店営業部にいて貸付に三課あった。 私は新入りで事務方の一課にいた が、申請方の二課に学校の先輩で万平ホテルの一族の方がいた。 それで貸付 課の社員旅行で、なんと万平ホテルに泊ることが出来たのである。 後年、私 が銀行を辞めて家業のガラス工場で経理をやっていたら、その方がメインバン クだった支店の支店長になって来られて、親密な取引とお付き合いをすること にもなった。

 新聞広告で諸田玲子さんの『軽井沢令嬢物語』(潮出版社)を見た。 「軽井 沢令嬢」は老舗ホテルの娘だという、万平ホテルに違いないと思った。 諸田 玲子さんの『木もれ陽の街で』(文藝春秋)を読んで、「昭和26年の家庭と「恋」」 <等々力短信 第967号 2006.9.25.>に書いたことがあった。 その手腕は承 知していた。 予想通り、巻末に「この小説は、軽井沢、万平ホテルの関係者 から伺ったお話をもとに書かせていただいたフィクシュンです」という献辞が あった。

 小説では朝霧ホテルのお人形のような年子の姉妹、満智子と麻由子は、昭和 13年初夏に、小学4年生と5年生だった。 ホテルの創始者は曽祖父の武藤康 平、祖父が二代目、姉妹の父康二郎は二代目の次男である。 物語は妹の麻由 子を中心に展開する。 ホテルは、戦前のいい時代から、戦争の暗い影が忍び 寄り、戦後のGHQによる接収、昭和30年8月末の接収解除後初のダンスパー ティまでが描かれる。 麻由子自身も、東京で高等女学校に通っている時に母 を喪い、継母が来て、阿佐ヶ谷の伯母の家に一人世話になり、学徒動員で拝島 の昭和飛行機に通う。 昭和20年に女学校を卒業、父に反対されたものの、 軽井沢の遊び人だが、どこか翳のる大財閥の、銀行家の御曹司と結婚する。 だ が、夫が仲間と始めた事業が倒産、お嬢さん育ちの麻由子が進駐軍のカタログ 商品を売る闇商売に手を染めることになる(去年9月、幸田真音さんの『舶来 屋』(新潮社)で読んだサン モトヤマの茂登山長市郎会長と同じだ)。

心の豊かさと軽井沢の集会堂2010/09/05 07:04

軽井沢・集会堂の外観

 『軽井沢令嬢物語』の「さわり」は何か。 数々の苦難を乗り越える朝霧ホ テルの、ホテルの仕事が何よりも好きな、麻由子の祖父は「不運にも、見るべ きものがある」「どんなものにも、光明がある」と言う。 麻由子自身、闇商売 まで経験して、自分にも稼ぐ力があるとわかり、自力で生きてゆく充実感を知 った。

 「戦争を経てわかったことがある。明日なにが起こるかわからない、という ことだ。だからこそ、今を楽しむ。生きるとは、一瞬一瞬、きらめくことでは ないか。」 ホテルが米軍に接収されていた時代、雪のクリスマスの夜の軽井沢 集会堂、八時半に一斉に窓を開けると、外に騎兵隊の制服を着てナポレオンの ような帽子の大柄の米兵が、ずらり三十人ほど並んで、クリスマス・ソングの 合唱を始めた。 「なんて粋なことをする人たちかしら―。/麻由子は心底、 感心した。日本が戦争に負けたのは、もちろん国力の差にはちがいないが、そ の国力の中には人の心の豊かさも含まれていたのではないか。笑いや遊びや、 日々の生活を楽しもうとする余裕――それこそが豊かさ、「文化」というものだ ろう。」 朝霧ホテルに育ち「楽しんでこそ人生」の信条が生来のものだった かもしれない麻由子は、最後に「女たちを美しく変身させ、生きる楽しみを広 めること」「それこそが自分にふさわしい仕事ではなかろうか」と考えるように なる。

 2007年10月福澤諭吉協会の旅行で、万平ホテルの熊魚菴で美味しい昼食を とる前に、ヴォーリズ設計の集会堂(1926(大正15)年竣工)の、中を見学 させてもらった。 協会理事長の服部「ネ豊」次郎さんが、財団法人軽井沢会 の理事長でもあったからだ。 コンパクトで瀟洒なよいホールで、音響効果な どにも配慮されていると聞いた。