小沢一郎の敗北と足跡2010/09/07 06:57

 世川行介さんは『泣かない小沢一郎(あいつ)が憎らしい』で、小沢一郎は 敗れ続けた男だ、という。 最初の敗北は、1992(平成4)年経世会の跡目争 い。 金丸信が、政治資金規正法違反で略式起訴され経世会会長の座を退き、 議員辞職した。 小沢は盟友羽田孜(つとむ)を担いだが、竹下登は小渕恵三 の擁立を計り、参院の青木幹雄の協力を得て、小沢・羽田を破った。 1993 年6月、自民党を離党し、新生党を結党(党首、羽田孜)代表幹事に就任した。

 二度目の敗北は1994年4月、新生党の小沢と羽田が八党派の接着剤になっ てつくった細川護煕非自民連立政権の崩壊。 細川政権が何年か続けば、非自 民政権が定着すると、調整してきた小沢の意図を、細川首相の突然の辞任がぶ ち壊した。 ただ細川内閣で、小選挙区比例代表制導入のめどがついた。

 三度目の敗北は同年6月、細川内閣の後継羽田内閣の64日という短命での 崩壊だった。 社会党が連立政権を離脱したため、自民党提出の内閣不信任案 が成立確実になったからだった。 自民・社会・さきがけの連立による村山富 市内閣が発足、小沢は一介の野党議員となる。

 1994年12月新進党を結成(党首、海部俊樹)幹事長に就任、翌年12月新 進党党首。 1996年12月長年の盟友羽田孜が新進党を去り太陽党を結成。  1997年12月新進党解党、1998年1月自由党を結党し党首となる。 1999年 1月、小渕恵三首相の自民党内閣と「自自連立」を組む。 10月には公明党が 連立政権入りをして「自自公連立」となり、政権内で自由党は埋没、離党者が 相次ぐ。 2000年4月、政権離脱、自由党は分裂し、扇千景を党首とする保守 党が出来る。 しかし6月の総選挙で、小沢自由党は比例区で約658万票を獲 得する。    2003年9月、自由党解党、民主党に合流。 2004年11月、民主党副代表。  2006年4月民主党代表に就任。 2009年5月、民主党代表辞任、代表代行に 就任。 同年8月、政権交代。 9月、民主党幹事長に就任。 2010年6月、 幹事長辞任。