ある近代起業家・奥山春枝の誕生 ― 2010/12/18 07:02
11日は、福澤諭吉協会の第110回土曜セミナーで、交詢社に出かけた。 講 師は坂井達朗慶應義塾大学名誉教授、演題は「慶應義塾史研究が忘れていたあ る福澤門下生―草創期のビルブローカー奥山春枝の生活と意見―」だった。 坂 井さんは10月、慶應義塾大学出版会から『評伝 奥山春枝―近代起業家の誕生 とその生涯―』を刊行された。
奥山春枝、男性である、丈夫に育つようにと父親がこの名を付けたのだろう と坂井さんは推測する。 1873(明治6)年旧上山藩の城下町だった今の山形 県上山市鶴脛町に生れた。 藩の経済官僚の家柄だったが、幼時に父に死なれ 家督を相続、一族に残った唯一の男子として、仙台にいた叔父の膝下で育つ。 高等小学校を出て、同志社の分校、東華学校に入った。 東華学校は、東北地 方にキリスト教を広める目的で設立され、校長は新島襄の兼任、副校長は門下 の市原盛宏、英語、数学、自然科学の初歩を教えた。 1890(明治23)年11 月に、慶應義塾に入学した。 当時、官立学校の制度が確立し、その程度が高 まったので、慶應義塾でもこの年、大学部を文学、理財、法律の3学科で発足 させたが、不人気だったという時期である。(大学部が義塾教育の中心となるの は、明治31年の改革以後) 奥山の在学中の成績が残っているが、英語と数 学が得意で、人文・社会科学は芳しくない。 見事な日本文字と英文の筆跡が 残っていて、「福澤センター資料12」『奥山春枝「日本作文」答案』も出版され ている。 夜間、商法学校に通学し、簿記学を学んでいるのは、家学(経済官 僚)としての意識だろうか、と坂井さんは言う。
在学中、親しい友人と密接な交友関係があり、政治や宗教(キリスト教の信 仰)について活発な議論を交わしている。 福沢の書物はほとんど読まず、演 説会へも反発して行かなかったが、それは心の底からのものでなく、「実業の世 界に出て行くのがよい」という福沢の意見と同じことを「日本作文」に書いて いるし、卒業の日の朝には福沢を訪ね、30分も話し込み、「贈医」という書幅 までもらっている。(慶應義塾入社帳の証人、一族で飯倉在住の奥山玄仲は蘭方 医なので、この書幅から福沢と桂川甫周家で面識があった可能性があるという) 卒業後、就職活動中の約200日間の故郷での待機を経て、逓信省の官吏から 金融業へと進むことになる。
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